chapter.5



 低い呟きと共に、マナトが駆けてくる。一気にこちらとの間合いを詰めようとする行動に、ケイオスは戸惑う。銃という武器は、何よりも間合いが重要になる。遠すぎれば当たらないし、近すぎれば反撃を食らう可能性が高くなる。距離と用途に応じて銃を切り替えるのが効果的な使用法だ。

 だが彼のいる場所は、もはや拳銃では近すぎる距離だ。

(自殺行為か?)

 疑問が頭をよぎるが、それに答えを出している暇は無かった。ケイオスは相手を迎撃するために、マナト目がけて右手の刃を振り下ろす。だが、その目標はぶれるようにして彼の視界から消える。ケイオスの動きが止まる。いや、止められたのだ。

 マナトはケイオスの懐に潜り込んでいた。ただ飛び込んだわけではない。マナトの右手に握られた銃のグリップが、ケイオスが振り下ろそうとした右手を止めていた。左手は右手を交差し、ケイオスの腹部へと銃口を押し当てている。ケイオスは完全に攻撃を封じられていた。

 ほぼ同時に二発の銃声が響く。弾丸はケイオスの右肩と腹部を貫通し、身体をのけぞらせた。マナトは右手を引くと同時に身体を捻り、がらあきの胸部を蹴り飛ばした。鈍い音が聞こえる。胸骨を砕いたのだ。

 だがケイオスは踏みとどまる。動かない右手から剣を奪い取ると、左手に持ち替える。血の糸を引きながらケイオスが踏み込み、長剣が高速で突き出される。マナトは斜め前に踏み込みつつ、拳銃のグリップを突き出されたケイオスの左肘に叩きつける。突きの軌道をそらしつつ、ケイオスの左腕を叩き折った。グリップを叩きつけた体制のまま左腕が交差させ、銃口二つを向ける。銃声は二発。ケイオスの眉間に着弾した。

 踏み出していた右足を引くと同時に、連続して引き金を引く。頭部に銃撃を受けてのけぞるケイオスの身体に五発ずつ追撃をかける。着弾のショックで身体を震わせながら、ケイオスは倒れた。

 

 

 地面に仰向けになったケイオスは微動だにしない。銃弾14発全てが肉体に命中。完全に致命傷だ。

 だがマナトは警戒を解かない。彼は気づいていた。倒れたケイオスが発するプレッシャーを。それは次第に大きく、強大になっていく。

 むくり、とケイオスが起き上がった。まるでいま目が覚めたとでも言わんばかりに。つい先程に穴を開けられたはずの顔には、傷一つ無い。優雅な微笑みすら浮かんでいた。悠然と立ち上がり、コートについた土を払い落とす。銃撃を受けたはずのそれは、まるで仕立て上がりのようにほつれ一つなくなっていた。

「相手が攻撃する軌道を予測し、行動を封じる。且つ、自らが攻撃を加えられる体勢を取る。その二つの挙動を一つで行う訳か。理屈は簡単だが、実戦するとなると、出来る人間はそういないだろうな」

 ケイオスは、いままでのような曖昧なものではなく、明確な感情を持った表情を浮かべた。それは歓喜だ。

「さぁ、私を楽しませてくれ。汝の限界を見せてくれ」

 ケイオスは左手のベルトを二本目の長剣へと変化させる。二振りの刃を携えて、今度はケイオスがマナトへと襲い掛かった。

 四足獣のように地を蹴ってくるケイオスに対し、マナトは動じるそぶりもなく、その場で待っている。それは獣を制する闘牛士のようにも見えたが、ケイオスにとっては関係のないことだった。彼が考えているのは、いかにして効果的な攻撃を打ち込むか、という一点だけだからだ。

 大きく踏み込みつつ、右手の刃を振り下ろす。マナトは剣の軌道から身体の軸をずらして最小限でよける。続く左の横薙ぎをバックステップで避けた。間合いを詰めようとするケイオスに対し、二発の弾丸が反撃する。後退しつつ撃った弾は、長剣に一発ずつ当たる。傷一つ付かないが、追撃を鈍らせることはできた。その時間を利用し、首を狙ってきた左右からの斬撃から逃れる。

 ケイオスは攻撃の手をゆるめない。直線の突きをフェイントにして、逆袈裟に斬り上げる。しかし、マナトはこの攻撃を予測していた。右腕が動くのとほぼ同時に地面を蹴り飛ばし、低い姿勢で懐に潜り込んだ。右肩が接触するほどの至近距離で、マナトは上半身だけを旋回させる。右手の銃のグリップがケイオスの顎を弾き飛ばし、腹部に突き刺すようにして左手の銃口を押し付け、二回引き金を引く。ぐらり、とケイオスの身体が揺らぐ。その体勢のまま両腕を交差させ、こちらに反撃しようとしていたケイオスの両腕を撃ち抜く。マナトからその手は見えていなかったが、その銃撃は正確だった。マナトの身体は動きを止めずに、左足をケイオスの顔面に跳ね上げた。

 その瞬間、マナトの体中にざわりとした感覚が走る。肉体が感じた危険信号に従い、マナトは攻撃を中断し、なかば無理やり後ろへ飛んだ。それを追うように、長剣の切っ先が、ケイオスの身体から飛び出してきた。だが飛びのいていたマナトを追って剣先が伸びるが、鼻先で停止した。

 両足で着地しながら、マナトは頬を汗が伝ったのに気づいた。先程の位置にいれば、確実に致命傷を負っていただろう。マナトは胸部から剣を生やしたままのケイオスを見る。彼の顔には微笑が張り付いていた。

「なかなかいい反応だな」

 気持ちの悪い音と共に、刺さっていた剣を引き抜くと、自分の血液を払い落とす。

「見ての通り、私は普通の人間とは違う。汝らの常識というものは通用せんよ。そもそも死ぬのかもよく分からん。いままで殺されたことが無いからな」

 ケイオスの口が、三日月型に裂ける。双眸が血のように黒く輝く。

「それで、汝はどうする?」

 いつもは、ここで逃げられていた。

 人間は自らの常識を超えたものを理解しようとしない、世界が狭い生き物だ。未知なるものを受け入れてこそ成長するというのに、それを選ばない。ケイオスはそれに飽きれていた。だから期待することは出来なかった。しかし今度こそは、という感情がケイオスにはまだ残っていた。

 そのことは、ケイオスにとって幸福だった。

 マナトの口が、半月型に裂けていた。だが表情に変化はない。感情の浮かばない瞳のまま、口だけが笑っていた。正視に堪えない狂った表情を彼は浮かべていた。

 彼もまた、同類だった。

 それを見たケイオスは、堰を切ったように笑った。それは焦がれていた運命の相手にようやくめぐり合えた、という歓喜の感情だった。

 

 

 ケイオスは両手の長剣を地面に突き刺した。

 掌を剣の柄へとかざす。二の腕を拘束していたベルトが弾け、突き刺された剣に巻きついて同化する。右の剣は身幅の分厚い凶悪な形状へと変化する。左の剣に変化はないように思えたが、ケイオスが引き抜いた瞬間、刃が分裂する。一本の刃はそのままに、鍔の部分から四本の鞭らしきものが伸びた形状に変化した。

 マナトもただ待っていたわけではない。弾丸を消費した弾倉を抜き取り、コートの内側に仕込まれた新たな弾倉を装填する。約二秒間の早業。加えてその作業を二丁同時に行っていた。

 マナトは左の銃を腰溜めに。右の銃をケイオスに向けて構える。その顔にはまだかすかに笑いが張り付いていた。ケイオスはそれを見て満足げに笑い返す。そして対比するように、右の剣をマナトへと向けた。

「さぁ、楽しもうか」

 その台詞が終わると同時に、ケイオスは地を蹴る。マナトに接近しつつ、左の刃を突き出す。それが合図であったかのように、中心の刃を除いた四本が鋭くうねりながら伸びた。弾丸のような速度で四本の刃は頭上へと伸びていき、急降下。雨のようにマナトへと降り注いだ。地面に突き刺さるそれを、マナトは前方へと飛び込みつつ回避する。そのままケイオスへと接近しようとするが、地面を踏みしめた右足から感じた違和感に従い、彼は左手の方向へと飛んだ。

 瞬間、マナトが先程までいた地面から、四本の黒い槍が飛び出す。地面に突き刺さったケイオスの剣がそのまま地中を貫いてきたのだ。安堵する間も無く、頭上に迫る威圧感。ケイオスが打ち下ろしてきた巨大な刃に対し、マナトは回避を選択せず攻めに転じる。飛び込みつつ前転し、攻撃の内側へと潜り込む。回転の勢いを殺さずに右足を繰り出し、ケイオスの足を蹴り払う。軸足を刈られケイオスの身体が宙に浮く。そこに弾丸を撃ち込もうとするが、それは叶わなかった。

 ケイオスは空中で静止していた。正確には左の剣を地面に縫い付けて、左手一本で身体を支えていた。足払いを食らったように見せたのはフェイクだったのだ。そして引き戻されて頭上に掲げられた右の巨剣が、再びマナトを狙う。

 反撃は間に合わない。そう判断したマナトは右の拳銃を前方へ放り投げ、宙にあるケイオスの足を掴んだ。右手で自分の身体を思い切り引き寄せて、ケイオスの下を潜り抜けていく。マナトが地面を滑りながら銃撃するのと、ケイオスの刃が地面を抉ったのはほぼ同時だった。

 三発の銃弾を背中に命中させる。マナトはすぐに体勢を立て直すと、投げ捨てた銃を拾った。一方のケイオスは何事も無かったように着地し、剣を引き抜く。ひゅん、と風を切って伸長していた刃が元に戻る。

 先手を許せば不利、と感じたマナトは駆ける。ケイオスは迎撃するべく左の刃を振る。四本の刃が蛇のようにのたうちながらマナトに向かって伸びていく。接近のスピードを緩めないまま、最小限の動きで刃をかわしていく。ケイオスは不敵な笑いを浮かべながら左手首を捻った。それに呼応して、避けられた刃がくるりと向きを変える。それはマナトの死角から高速で突っ込んできた。

 だが、マナトは全て解っているように、口だけを半月にした笑いを浮かべた。

 左手が持っていた銃を太腿のホルスターへと戻し、そのまま腰へと伸びる。マナトが手にしたのは、小型のサブマシンガンだった。その銃を肩越しに背後へと向ける。そのまま引き金を絞った。連続した発砲音が響き、襲い来る刃に正確に命中する。一直線に来ていた刃が弾丸で軌道を逸らされた。ケイオスの顔に感嘆の表情が浮かぶ。マナトはその額にしっかりとハンドガンの銃口をポイントしていた。

 ケイオスの額に風穴が空く。連続して命中した弾丸はケイオスの頭を踊らせた。さらに間合いを詰めつつ、マナトは右手の銃もホルスターへと収める。そして右足で踏み込んだ時に身体を深く沈める。右手が足首に固定していたナイフを引き抜いた。

 マナトの沈んだ体が跳ね上がると同時に、右手はナイフを振るっている。鋭利な刃は弧を描いて、ケイオスの左手と右手を切り払った。そのまま返す刀でケイオスの心臓を貫く。手首を捻り、腹部へと体を切り裂きつつ、ナイフを引き抜く。その傷口に、マナトは持っていたサブマシンガンを突っ込んだ。そして大きく後方へと飛びのいて間合いを離しつつ、左手でハンドガンを引き抜く。

 ハンドガンの銃口が火を噴く。連続して打ち出された弾丸は的確に命中する。ケイオスの体ではなく、先程マナトが傷口に突っ込んだサブマシンガンであった。

 耳をつんざく破裂音と共に、ケイオスの体が弾けた。サブマシンガンが暴発したのだ。銃身が爆発し弾丸が弾け飛ぶ。ケイオスの半身が鮮血を噴き出した。それを見届けてから、マナトは懐から焼夷手榴弾を取り出す。通常の破片を飛ばす手榴弾と違い、炎で相手を焼き尽くす手榴弾である。点火ピンを抜いて、正確な投擲でケイオスの足元へと落とした。

 数秒後、爆発音と共に灼熱の炎がケイオスを包み込んだ。

 

 

 轟々と燃えるケイオスの体を見て、マナトの顔は再び笑みを刻んでいた。しかし、勝利の笑みというにはあまりに不吉な表情だった。だが、その顔はすぐに無表情へと変わる。

 次に彼の視線が捉えたのは、廃ビルの前に立っていた朱鷺峯エリの姿だった。彼女は一部始終をそこで見ていた。それにも関わらず、彼女の顔には何も浮かんでいない。何事も起きていない、という風に悠然と立っていた。

 マナトは右手のナイフを鞘へと収め、ホルスターの銃を引き抜く。そのまま銃口はエリの額をポイントした。

「次はお前の番だ」

 ここでマナトは彼女にどういう反応を期待していたのだろう。だが彼女がとった行動は、すくなくともマナトの予想外だったようだ。小さく肩をすくめたエリに対し、マナトの顔が少しだけ訝しげな表情を浮かべた。

「なにか勘違いしているようだから、言っておこうか」

 エリはマナトの背後を指差して、こう言った。

「君の相手は、まだ後ろにいるだろう」

 そう言われた瞬間に、マナトの真後ろに気配が生まれた。銃口を向けつつ振り返って彼が見たのは、黒い物体と化したケイオスだった。

 体からぶすぶすと肉の焦げる煙が上がっている。鼻を突く悪臭がこちらにも届く。髪も衣服も焼け、焦げあがった皮膚が黒いスーツのように体を覆っている。立つどころか生きているのも不可能な状態である。しかしケイオスは立っていた。

 顔がもぞもぞと動き、焼けて張り付いた皮膚に亀裂を生む。血を噴き出しながらケイオスの顔が赤い半月状に裂ける。焼けた喉からかすれた声を発する。彼は笑っていた。

 マナトは構えていた引き金を引く。的確に急所へと撃ち込まれ、黒い体に黒い穴が開いた。血が噴き出す。だがケイオスのかすれた笑いは止まらない。マナトは銃弾を放ち続ける。同じように黒点を穿ち血液を吐き出させるが、ケイオスは立ち尽くし笑い声を上げるだけだ。何も変わらない。

 いや、変化がある。笑い声が徐々に戻っていた。喉が癒されているのだ。弾丸を撃ちつくし、マナトはマガジンを換装する。

「この瞬間、生と死の狭間、そこにおいてこそ、生命の真価が見える」

 あの時―――研究所の時と同じ、祝詞のような言葉をケイオスが呟く。その言葉に反応したのか、手首ごと切り落とされた二対の刃がケイオスの元へと飛んでくる。それはケイオスに隣接すると飴のように溶解し、体に張り付いた。どろどろの物体が瞬時に変化し、ケイオスが身につけていた衣服へと変化する。

「この輝きこそ、この煌きこそ、地球上に存在するどんなものにも勝る美の結晶」

 マナトは銃撃を再開するが、いつのまにかケイオスの右手に握られていた長剣が、弾丸を弾き落とす。ばさり、と焼け落ちたはずの金髪がケイオスの焼け爛れた顔を覆う。

「狂え。足掻け。舞い散れ。汝の全てを我に見せるがいい」

 ゆっくりとケイオスが顔をあげる。輝く紅い瞳。陶磁器の肌。妖しく濡れた唇。そして唇を引き裂いた笑み。そこには焼死体となった面影は欠片も残っていなかった。

 ケイオスは右手に剣をだらりと下げたまま動かない。マナトは対峙した時に戻ったような既視感を感じる。だがそれは所詮錯覚に過ぎないと理解する。

 決定的に違うのは、眼だ。鮮やかな紅の瞳が、血を浸したような禍々しい色をしていた。それは獲物を捕食する前の獣に似ていた。だがマナトは臆さない。彼にそんな感情は存在していなかった。

 マナトは静止したままのケイオスへと駆ける。近づいてくるマナトにようやく気づいたのか、ケイオスが右手の刃を振り上げる。そしてそのまま一直線に振り下ろす。だがその行動は、マナトへと向けられたものではなかった。切っ先は地面を鞘代わりにしたように突き刺さる。いや、実際それは鞘だった。

 剣を放り出して、ケイオスが走り出す。互いに接近したことによって、二人の距離は一気に詰まる。そして一気に危険地帯まで到達した。

 ケイオスの右手が槍と化して突き出される。銃弾もかくやという速度で打ち出されたそれは、強大な圧力と破壊力をもってマナトを襲う。生半可な防御は通用しない。そう判断したマナトは、ケイオスの右腕に交差するように左腕を叩きつけた。接触した瞬間、コートの袖が破れ、次に皮膚と肉が削られて血の糸を引く。苦痛を無視し、マナトはそのまま踏み込む。そして右手の銃口をケイオスの口蓋に持っていく。口内で発射された銃弾は頭蓋骨を貫いて、ケイオスの脳漿をばらまく。続けざまに弾丸を放とうとしたマナトの右腕が、突然的を外す。

 脳を破壊されたケイオスの左手によって。

 べったりと血に濡れた顔のまま、ケイオスは笑い顔を浮かべていた。それがマナトにわずかな隙を作った。ケイオスの膝が無防備なマナトの腹に突き刺さった。鍛えられた筋肉を貫き、肋骨がたやすく砕ける。そして砲弾が直撃したようにマナトの体が吹き飛んだ。

 

 

 背中から地面に落下したマナトは、すぐに起き上がろうとする。しかし、破壊された肋骨が内臓を傷つけていた。マナトは体を折り曲げて血の塊を吐く。

 ケイオスはそれを見守っていた。彼が受けたダメージは深刻だ。これ以上動こうとすれば命に関わるほどの重症。しかし、彼は向かってくるだろう。そういう確信があった。

「殺戮のための人形とはそういうものだ」

 マナトが立ち上がった。重症を受けても立ち上がるその顔は、もはや亡霊じみている。だがそれでも、口元は笑ったままだった。

「憐れだな。刷り込まれた感情に動かされてそれで満足だというのか?」

 地面に突き刺した剣に手を添える。いつのまにか血の跡すらない顔から、張り付いていた笑みが消えた。

「もはや汝に残されているのは、特攻意外に無いだろう。これ以上は興が削がれるのみだ」

 剣を引き抜く。こびりついた土を払い落とすと、切っ先をゆっくりとマナトへと向ける。

「我が汝に引導を渡してやろう」

 二人が同時に踏み出した。

 マナトは走りながら銃弾を撃ち込んでくる。でたらめに撃っているように見えるが、全ての弾丸は的確に急所を狙ってくる。だがそれをケイオスは神速の剣さばきで斬り落す。全く効果を上げられない銃声が響く中、しだいに二人の距離が詰まる。そして、ケイオスの剣が届くまであと一歩、というところでマナトが動きを見せた。血まみれの左手をケイオスに向かってかざす。剣を防ぐ盾とするつもりだろうか。だが、ケイオスは一切の躊躇を見せずに踏み込む。盾があるなら、それごと斬り捨てる。その思考を実行に移すべく、渾身の力を込めて黒い刃を振り下ろした。

 その斬撃に反応し、マナトの左腕が水平から垂直へと変化する。迫りくる刃に対し、左手はあろうことか拳を握り、加速した。

 剣と拳が激突する。当然ながら勝ったのはケイオスの剣だ。拳を二つに裂き、血しぶきを引き連れながら骨と筋肉とコートの繊維を斬り裂いていく。が、それは同時に斬撃の速度をも奪っていった。刃は徐々に力を失い、その進行は肘関節付近で止まる。マナトは文字通り体を張ってケイオスの斬撃を止めたのだ。

 右手がいつのまにか銃ではない別の何かを握っている。長方形の粘土らしきものに小さな機械が付属したそれは、プラスチック爆薬だった。マナトの右手がそれをケイオスの口へとねじ込む。爆薬だけを残し右手を引き抜く。そしてコートの内側に縫い付けてある爆破スイッチへと手を伸ばした。この至近距離で爆発させれば、マナト自身も吹き飛ぶだろう。だが、それは彼の行動を妨げる理由にはならない。ケイオスを抹殺するという事は彼にとって至上の命題であり、命を天秤にする価値のある行為だからだ。

 右手の指先がスイッチを握りこもうとする瞬間、彼の死人のようになった白い顔が、これまでで最高の笑みを浮かべる。

 そして彼の視界は白い光に包まれた。

 

 

 だからこそ、その声は聞こえるはずはなかった。聞こえてはいけなかった。

 だがそんな願望も虚しく、マナトの耳にこの声が響いた。

「何を笑っている?」

 反射的にマナトの意識は覚醒し、両目を見開く。彼の眼前に広がったのは、口に詰め込まれた爆薬を吐き出したケイオスだった。爆発は無かった。なら彼が見た光は何だったのか。彼は無意識に右手のスイッチを確認していた。しかし、何度スイッチに触れようとしても、右手は一向に動こうとしない。彼の視線はコートの内側に差し入れていた右手へと向かった。

 答えはあまりにも単純だった。スイッチを押せるはずが無いのだ。

 右手は地面に落ちていた。

 視線だけが左腕を見る。受け止めたはずの刃が姿を消していて、切り裂かれた左腕の半分が地面に落ちている。

 考えれば分かることだ。

 ケイオスは右手がスイッチを押す瞬間、左腕に食い込んだ剣をそのまま横薙ぎにして、剣先を跳ね上げて右手を斬り落としたのだ。

 あのとき見た光は、高速の剣が描く奇跡だったのだ。

 そうマナトは理解した。理解してしまった。脳がその現状を把握してしまったならば、もはや止めることは出来なかった。

 刃の奇跡をなぞるように、マナトの体が斜めに大きく切り裂かれる。一拍置いて、大量の血液が傷口から放出された。それはもはや、致命傷というレベルを遥かに超えていた。マナトは完全に意識を失い、天を仰いで地面に倒れた。

 

 

 一人が倒れて、一人が見下ろしている。決着は誰の眼にも明らかだった。

 その二人へと向かってくる足音が響く。朱鷺峰エリだった。彼女が血の海に沈むマナトを見下ろす。

「……殺すな、といったはずだが」

 口調には怒りの色が混じっている。だがケイオスはまるで悪びれる様子なくこう言った。

「まだ生きている。だがあと三十秒もすれば死ぬだろうな」

 エリは何も言わずに、ケイオスを睨んだ。言葉がなくても彼女の思考は十分に伝わる。ケイオスは溜息をついた後、右手の剣を倒れたマナトの上へと放り投げる。彼の体に接触する寸前で、剣は黒い布に変化して広がる。それが全身に巻きついて、マナトの体を覆った。黒いシルエットと化したマナトの全身から、淡い光のようなものが立ち上る。それが消えた後、ケイオスが指を鳴らす。その音に反応して、黒い布がケイオスの手元へと戻り、腕に巻き付いて元の黒いベルトに戻る。

 布が払われたマナトの体は、満身創痍だった状態から、マジックのように傷一つない姿へと復元されていた。

「あと十分もすれば目を覚ますだろう。それまでにここを立ち去るべきだな」

 ケイオスはそう言って踵を返す。だがその歩みは三歩で止まる。後ろをついてくる足音が聞こえなかったからだ。もう一度振り向く。エリは倒れたマナトを見たまま動いていなかった。その様子を見て、エリが考えていることに思い当たる。慈悲深いのか、偽善的なのか。

 ケイオスは溜息混じりに口を開いた。

「言っておくが、その男の洗脳を解くのは不可能だ。これは表層的な洗脳ではない。これまでの言動や行動が、そいつにとっての『常識』と植えつけられている。それを無理に解こうとすれば、人格は崩壊する。それでも構わんのならば良いが」

「……いや、いい。このまま放っておく」

 数秒の間があったが、エリは素直に答えた。彼女は最初から分かっていたかもしれない。しかし、それでもわずかな可能性を、と考えていたのだろう。

 彼女はその言葉に続けて、苦い口調でこう言った。

「これはただの偽善、私の自己満足だからな」

 エリは、マナトと自分を重ね合わせた。そして救われない彼を哀れんだ。

 だから、今度は自分が手を差し伸べてやりたかった。自分に手を差し伸べてくれた六呂シズマと同じ事を。

 しかし、自分で吐いた言葉が示すとおり、ただの自己満足でしかない。そんな救済をマナトは望むのだろうか。考えれば考えるほど自分の醜さに気づくようで、エリは大きく溜息をついた。

「行こう」

 マナトに背を向けたエリの表情はいたって普通だった。少なくとも表面上は。

 その表情がケイオスに何を感じさせたのかはわからない。彼は自分の側を通り過ぎようとするエリを言葉で止めた。

「マスター、それは違う」

 エリは足を止める。

「偽善だろうと自己満足だろうと、他者を救おうとするのは人間だけだ。決して間違ってはいない。現にマスターは一人を救い出している」

 振り返ったエリにケイオスは背を向けていて、その表情を窺うことはできない。だから彼がどんな表情で次の言葉を言ったのかは分からなかった。

「マスターは、我に手を差し伸べたではないか」

 エリの思考は固まってしまった。こんなことは予想もしてなかった。

 彼の口から感謝の言葉が出てくることなど。

 しばらく呆然としていた彼女だったが、視界にとらえていたケイオスの姿が一瞬で消えたことでようやく我に返る。足音を聞いて振り返ると、ケイオスがいつのまにか背後に出現していた。

「さて、それではあの車を治さなければならんな」

 その普段と変わらない言葉が、エリには照れ隠しのように聞こえて、思わず笑ってしまった。その声を聞いてケイオスが「何を笑っているのだ?」などと聞いてくるものだから、また彼女は吹き出してしまう。

 ケイオスはこちらの考えていることが分からず、首を傾げて再び歩き出した。エリも緩んでしまう頬を抑えながら、その後に続いていく。だが思い出したように足を止めて、肩越しに後ろを見た。

 数十歩の距離が空き、その姿を小さくした神威マナトの姿を、彼女の瞳が捉える。エリは意味など無いと知りながらも、願わずには要られなかった。

 

 いつか誰かが、彼を救い出す手を差し伸べることを。







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