回収予定時刻になってもSMILE OF JACK≠ゥらの連絡は無く、一度本部に帰還したヘリは、五人の小隊を乗せて現場に帰還してきたのだ。ヘリは先程と同じように現場の上空でホバリングし、録画再生のように同じ光景を映し出した。降下用のロープが機内から飛び出す。但し今度は地面まで到達する長さだった。続いて武装した黒い影が降りてくる。影は手で落下速度を調整し、地面に降り立つ。
即座にストラップで体に密着させていたアサルトライフルを構え、索敵を開始する。銃口が一周し、戦域を確保。男は左手をかざして上空のヘリに合図を送る。それを受けて、ロープから次々と地上にいる男と同じ格好をした影が降りてくる。二人目が降りてきた時、最初にいた男は低い姿勢で前方へと進み、先程までの視界に入らなかった場所の索敵を行う。同様のことを二人目、三人目も続けて行う。それが止まったのは五人目が降りてきた時だ。ロープが勢いよく引き上げられ、ヘリに収納される。
周囲を警戒する男達の耳に、無線の受信音が入る。ヘリに居る小隊長からの連絡だった。
『こちらウォルト大尉。十時の方角、目算四メートル地点にSMILE OF JACK≠確認。各自、周囲を警戒しつつ接近せよ』
その言葉に従い、小隊が動く。互いの死角をカバーしながらゆっくりと倒れたマナトへと近づいていく。先頭を進んでいた一人の兵士が、ハンドシグナルで後方に合図を送る。統制された動きで残りの四人がその兵士の四方をカバーした。
兵士は銃を傍らへと置き、倒れているマナトの肩を叩く。最初は反応が無かったが、繰り返すうちに小さなうめき声が聞こえた。どうやら意識を取り戻しつつあるらしい。もう少しで目を開けるだろう。
一体ここでどんな戦闘が行われたというのだろう。
地面には無数の薬莢が散らばり、真新しい血液が大量にばらまかれている。巨大な爪を突き刺したような穴や、地面が焼け焦げた痕跡もあった。たった一対一の戦闘でここまでの破壊が行えるものなのだろうか。想像の及ぶ範囲ではない殺戮の場であったことは間違いないのだろう。
その時、彼は奇妙なことに気づいた。これほど死闘の痕跡が残っているというのに、倒れているSMILE OF JACK≠フ体には傷一つ無い。いや、その言い方には御幣がある。身に着けているコートや服はぼろぼろに裂けているのに、中身である肉体には何の痕跡も残っていないのだ。まるで誰かが体の損傷だけを消してしまったように。
何か言い知れぬ悪寒を感じたと思った時、倒れていたマナトの体が震える。そしてゆっくりと瞼を開いた。
「気づきましたか、SMILE OF JACK=v
兵士はそれを確認すると、無線のスイッチを入れ、ヘリの大尉に連絡を入れる。
「こちらブラウン。SMILE OF JACK≠フ生存を確認」
『了解した。そのまま隊列を維持。SMILE OF JACK≠護衛しつつ、ヘリに帰還せよ』
「了解」
兵士は無線を切り、マナトへと向き直る。
「ヘリが待機しています。本部へと帰還しましょう」
だがその呼びかけに、マナトは何の反応も返さなかった。それを不審に思った兵士は、ようやくSMILE OF JACK≠フ様子がおかしいことに気づく。顔を覗きこむと、焦点の定まらない亡羊とした瞳と視線が交わる。まるで何も考えられない、といった目をしていた。
「SMILE OF JACK=@どうしました?」
その問いかけに、マナトは倒れたまま口を開いた。
「……あ…ああ……だれ…だ………ここは………ど…こ…だ……?」
途切れ途切れに呟いたその言葉は、兵士を動揺させる。同時にSMILE OF JACK≠ノ何が起きているかを理解させた。彼はもう一度無線のスイッチを起動させる。
「こちらブラウン。大尉、SMILE OF JACK≠ヘ、戦闘で何らかのショックを受けたようです。記憶と意識が混濁状態です」
『何だと……?』
「ともかく、こちらでは対処しようがありません。同伴し、ヘリに帰還します」
『分かった。そうしてくれ』
兵士は無線を切ると、不思議そうにこちらを見ているマナトに告げる。
「今は何も分からないかもしれませんが、ともかく、安全な場所まで案内します。行きましょう」
差し出した手の意味を理解できているのかいないのか、マナトは兵士と同じように手を差し出す。兵士はその手を取り、マナトの体を引き起こす。
そのとき、マナトは左手に硬い感触を感じた。そちらに目をやると、黒い輝きを放つ物体が見える。それは先程まで使用していた拳銃だった。その物体が何であるかをマナトは理解していたわけではない。だが、その輝きに吸い寄せられるように、自然と手が伸びていた。
それに触れた瞬間、マナトの全身が震えた。
脳細胞が冷たい鉄の感触で反応する。電流のように神経を走った命令は、脳に記憶されたものではない。肉体に蓄積された反応が、マナトの体を無意識に動かす。
兵士の右手を掴んでいた手を引き寄せる。同時に、しっかりとホールドした拳銃を兵士の眉間に突きつける。マナトの瞳に、驚愕に両目を見開いた顔が刻まれる。
一発の銃声が響き、後頭部から赤黒い脳片を撒き散らして兵士が絶命した。
四方を警戒していた四人の反応は素早かった。銃声で視線をこちらに向ける。眼前で倒れる仲間の姿に、何が起きたかを理解すると、銃口を一斉にマナトへと向けた。
無線から小隊長の声が聞こえる。
『どうした!? 何があった!?』
「……す…SMILE OF JACK≠ェ……ブラウンを射殺しました!!」
『なに!?』
周囲の動揺とは裏腹に、マナトは優雅ともいえる動作で立ち上がる。左手には拳銃を、右手にはまだ兵士の手を握っている。その視線は眼下を、自らが撃ち殺した兵士の顔を見ていた。
銃口がガシャリと音を立てる。包囲している兵士の一人が叫んだ。
「何のつもりですか、SMILE OF JACK=I?」
人差し指のほんのわずかな動きだけで、蜂の巣になるという絶望的な状況だった。そんな状況を理解できないのか、マナトは低い声で返答した。
「………頭の中がわからない……モヤがかかって何も見えない…………わからない……思い出せない………」
その音は、その場にいる全員に聞こえた。
きしり、という何かが軋む音。
「……………………それなのに………………………」
兵士たちが、無意識に一歩下がった。それは生物的な逃避行動だった。
彼らは無意識で悟っていた。
どうしようもない≠ニいうことを
「……どうしてこんなに楽しいんだ?」
顔を上げたSMILE OF JACK≠ェ、その名の示す通り、笑い顔を浮かべた。
蛇鉤リィドは自室のデスクへ鎮座し、じっと待っていた。
本部を出発する前、ウォルト大尉から報告を受けた。SMILE OF JACK≠ゥらの報告がないことから察するに、おそらくケイオスの奪還は失敗したのだろう。そのことは忌々しいと思いつつも、それほど悲観してはいなかった。
自分が考える以上に、ケイオスの能力というものは強大だということが分かったからだ。
過小評価をしているつもりは無かったが、SMILE OF JACK≠退ける相手となると、まさに彼の存在は「ジョーカー」だ。場をひっくり返す、究極の鬼札。そのことを確信できただけでも、収穫があったと言うべきだろう。
感情が発露しての行動だったが、結果的には良い方向に転がった。リィドは口元を吊り上げて笑う。
まだまだ機会はある。時間もある。どんな手段を用いても、必ず手に入れてみせる。自分にはそれを成すだけの才覚と力がある。リィドはそう自賛した。
電話のコール音が聞こえる。この着信音は外部からの無線連絡だ。加えて極秘回線。これを使用する相手は現時点では一人だ。リィドは受話器を取る。
「私だ」
『こちらウォルト。SMILE OF JACK≠フ生存を確認。但し、記憶と意識に混濁症状が発生。戦闘の後遺症と思われます』
「まぁその程度なら問題なかろう。ケイオスは?」
『朱鷺峯エリ、共に姿はありません。逃走した模様です』
予想通りの結果、と言えた。そうなった以上、早々に痕跡を消し去るのが上策と言えた。
「分かった。その場の痕跡を全て消去し、迅速に帰還しろ」
『了解………なっ!?』
電話を切ろうとしたときに、受話器の向こうでウォルトの声が響く。
『どうした!? 何があった!?』
リィドは受話器越しの叫びに、異常事態を悟る。
「何だ! 状況を報告しろ!」
『す…………SMILE OF JACK≠ェ……暴走!! 隊員を五名、射殺しました!!』
「な…何!?」
リィドは思わず声を荒げてしまった。その理由は一言、想定外ということだ。
SMILE OF JACK=@神威マナトは、命令を着実に実行する殺人機械。その事実は揺らがない。なぜなら、リィド自身がそう仕込んだ≠ゥらだ。
そのマナトが命令違反を犯す。考えられないことだった。
「ウォルト大尉、何が起きている! 答えろ!!」
しかし、恐慌状態に陥ってしまったウォルトに、その言葉は届かなかった。
『ま、まずいぞ! はやく旋回するんだっ!!』
その言葉を言い終わらないうちに、連続した銃声とガラスの砕ける音が、受話器越しに響いた。その音を最後に、受話器からもう声は聞こえなくなった。ノイズ音だけになった通話を、リィドは受話器を置いて終了する。
一つ、大きく呼吸をしてからリィドは状況を整理した。
おそらく、送り込んだ部隊は全滅しただろう。神威マナトは、おそらくここへは戻るまい。何があったかは不明だが、もう駒としての用を成さないことだけははっきりと分かった。現時点で残る問題は、あの地点に残る痕跡だ。それを始末しなければ、足をすくわれる材料にならないとも限らない。まず消すべきは、痕跡だ。そう判断したリィドはもう一度受話器へと手を伸ばす。
「何をそんなに焦っているのかね、蛇鉤くん」
唐突に聞こえてきた声に心臓を激しく揺さぶられながら、リィドは唐突に聞こえた声の方に顔を上げる。
「言っただろう。感情を制御しきれないのが、君の悪いところだ」
唯一の出入り口である扉の側に、いつのまにか男が立っていた。男は受話器を持ったままで固まっているリィドを、穏やかに見つめている。男は六呂シズマだった。
リィドの背中に冷や汗が流れる。一体いつからそこにいたのか。いや、それよりどこまで聞かれていたのか。ただ一つ確かなのは、楽観できる状態ではないということだけだ。
(返答によっては……)
リィドは脳裏によぎる黒い思考を、心の奥底にしまいこみながら、気づかれない程度に息を吸い、乱れた心を整える。ゆっくりと受話器を戻し、目の前で指を組んだ。
「いかに統括局長と言えど、ここは私の部屋です。ノックも無しに入るのは、局長としては少々礼儀に欠けるのではありませんかな?」
皮肉を込めた言い回しだったが、シズマは小さく笑い返しただけだ。
「いや、ノックはしたのだが、聞こえていないようだったのでね。こちらも緊急の要件だったもので、失礼させてもらったのだよ」
「用件とは何ですか? 私も火急の仕事があります。できれば出直して頂きたいですね」
リィドの言い回しは自らが言い放った礼節に欠けるものだったが、シズマはまるで気にする様子は無く、穏やかに笑った。
「何をそんなに焦っているのかね。室長たるもの、感情を制御できなければならん。いついかなる時にも冷静に。そうでなければ人の上に立つ資格はないよ」
一刻を争う状況だというのに、話をはぐらかされているようで、リィドは胸中で舌打ちする。だがここで感情的になれば、不信感を抱かれる。ここはシズマの用件とやらを片付けることが先決と判断した。リィドは気持ちを落ち着けるために、一つ咳払いをする。
「そうでしたね、反省いたします。ところで局長、用件とは何ですか?」
「まぁ私の方はたいした用ではないんだがね。ところで……」
シズマの右手が、顔を半分覆い隠す。そのなにげない動作の後に、部屋に満ちていた空気が一瞬で張り詰める。シズマの瞳に、先程の穏やかさは欠片も無く、強靭な力を持ってリィドを捉えていた。
「君の火急の仕事というのは、ケイオスを手に入れようとした策略の後始末かね?」
その言葉は、リィドの思考を停止させるには十分な力を秘めていた。表情に変化が現れなかったのは、顔の筋肉すら硬直していたからだ。時間の生死した肉体は、背中に流れた冷たい汗でようやく我に返る。早鐘のように鼓動を刻む心臓を叱責しながら、リィドは声を震わせないように細心の注意を払った。
「お言葉の意味が理解できかねますね。何のことですか?」
リィドのささやかな反論を、シズマは低い声で打ち消す。
「否定する必要は無いさ。何なら順に説明してあげよう。極秘裏にケイオスの存在を知りえた君は、室長の権限を行使しSWORD OF QUEEN≠ノ彼を回収させた。だが、ケイオスは君ではなくSWORD OF QUEEN≠自らの主として選び、さらに彼女は君の元を離れてしまうことになる。この結果を不満に思った君は、もう一つの手駒であるSMILE OF JACK≠送り込み、SWORD OF QUEEN≠抹殺、ケイオスを取り返そうとした。しかしSMILE OF JACK≠ヘ奪還に失敗。追い討ちをかけるように、SMILE OF JACK≠ェ原因不明の暴走をする。彼は自らの部下たちを射殺して逃亡した………あらすじはこんなところだったかな?」
ずらずらと並べ立てられる言葉の内容が、リィドの背中へ再び冷や汗を伝わらせる。彼が語っているあらすじ≠ヘ、現実に彼が行った行為そのものだからだ。なぜシズマがそのことを知っているのか。いや、そんなことは今考えるべきことではない。最優先すべき事項は、この事態の打破だ。だが、次にリィドが聞いたものは、再び彼の思考を停止させてしまう。
拍手だ。シズマが拍手している。その対象となるべき相手は、この場に一人しかいない。それは、蛇鉤リィドに向けられた賛辞だった。
「完璧だ。まさに【計画通り】というやつかな。さすがはリィド君、君の仕事は否の打ち所がないよ」
リィドは完璧に言葉を失う。シズマが何を言っているのか理解できないのだ。だがそんなリィドに構うことなく、シズマは続ける。
「私の言葉が理解できなかったかな。ならもっと分かりやすく言おうか」
シズマはその顔に愉悦を貼り付けて、リィドを見下ろした。
「私の計画通り≠ノ動いてくれてどうもありがとう。感謝するよ、蛇鉤リィド君」
「なん……だと?」
リィドの口から漏れた言葉は、普段の彼からは考えられないほどに弱かった。シズマは背を預けていた壁から体を起こすと、厚い絨毯の上を歩く。
「君は優秀な男だった。その若さで、ここまでの地位に就けたことはひとえに君の才覚ゆえだ。君は誰も信じないがゆえに、他人を蹴落とし利用することに恐ろしく秀でていた。言っておくが、君を告訴するという訴えはそれこそ山のように私の下へ来ていたよ」
いまだ言葉を発することの出来ないリィドの横を通り過ぎ、彼の背後にある窓際に立つ。
「それでも君には手出しが出来なかった。状況証拠はあきらかに君を示しているが、物証が全く存在しない。君が完璧に処理していたからだ。疑わしいという理由では、人を裁くことは出来ないからね。しかし、そろそろ君を野放しにも出来なくなってきたんだ」
シズマが肩越しにリィドを見る。彼は背中を向けたまま、目をあわそうとはしなかった。
「だから私は君を観察した。実に一年もの時間がかかってしまったよ。そういう意味では本当に君は優秀な男だったね」
シズマは再びリィドに背中を向けて、窓の外を見た。この部屋の空気とは正反対に、透けるような空が広がっている。
「馬鹿な………この一年間に対面したのはたった五回だ。それだけで私の全てを理解したとでもいうのか……?」
背中越しにリィドが呻く。普段の彼らは立場も地位も違う。単なる一部隊の室長であるリィドと、統括局長であるシズマとが対面する機会がそうそうあるはずが無い。相対したとしても、親密に話せる間柄だったわけではない。
そんなことができるとすれば、それはもはや人間の域ではない。
だがそんな驚愕は、単なる誤解でしかなかった。シズマがリィドの言葉を笑い飛ばしたからだ。
「さすがにそんなことは不可能さ。人間というものを知るには、時間を共有することが絶対に必要だ。私もそれに従ったよ。そのおかげで、容易に君を操ることができた」
だがその言葉でリィドは再び困惑する。
自分にそれほど接した人間がいただろうか。そもそも他人を信用しないリィドにとって、気を許した人間などいない。部下であろうと最小限の接触しか行わなかった。一体誰がシズマと繋がっていたというのだろう。
「気づかないのかね? 考えれば分かることだろう」
シズマは彼の思考を導く、最後のキーワードを語る。
「誰が君にケイオスの情報を流したのかね?」
その言葉で、リィドはようやく気づいた。
該当者がいた。『夜烏』の中でも特殊な位置にいるあの人間を。常にその身を潜め、リィドの手足となり行動し、最も重要である諜報活動の任についていたあの男を。
「………SILENT OF KING=c……」
ぎしぎしと歯を軋ませながら、リィドはその名を呟く。押しつぶされた歯茎から血がにじみ出て、リィドの唇を伝った。
「成程な……奴が内通者だったというわけか」
「その言い方は語弊があるね。彼は内通者などではないよ」
再びシズマの不可解な言動が、リィドを混乱させる。
窓際を離れたシズマが、ゆっくりとリィドの真正面に移動する。そして唐突にスーツの襟元に手を突っ込んだ。何をするかと思った瞬間、シズマの手が勢いよく自らの顔の皮膚を引き剥がした。
ぼとり、と引き剥がした皮膚が絨毯に落ちる。よく見ればそれは本物の皮膚ではなく、人口の皮膚。つまりマスクだった。だがリィドの視線はそのマスクまで見ることができなかった。マスクの下から現れた顔に視線を釘付けにされていたからだ。
『六呂シズマ』の顔を脱ぎ捨てたその男は、蛇鉤リィドの良く知る人間。
SILENT OF KING=@白蝋レンジ。
「内通者ではなく、本人です。間違えないでください」
六呂シズマ――白蝋レンジは、首に設置していたボイスチェンジャーを外しながら、放心状態のリィドに告げた。
しばらくの間、リィドは魂の抜けた顔で目の前に立つレンジを見ていたが、その体が唐突に脱力し、椅子に背中から倒れこんだ。両の腕は弛緩し、うつむいた視線が自分の足元へと落ちる。完全に力が抜けたその様子を、レンジは冷めた表情で見ている。目の前の光景が当然であるかのように。
静まり返った室内で次に聞こえたのは、低い息遣いだ。
喉が痙攣したような呼吸音が聞こえ、それはそのまま笑い声へと変化する。笑い声の主である蛇鉤リィドは、脱力した姿勢のまま顔だけを上げた。
「そうか………私はまんまと貴様の掌で踊らされた、と言うわけか………」
その声には何の感情も篭っていなかった。
「僕が憎いですか? あなたを騙し続けたこの僕が」
レンジの言葉に、リィドは嘲笑を浮かべる。
「愚かだな。騙すことに罪はない。馬鹿なのは騙される人間だ。こういう結末を迎えた責任は、私が愚かにも貴様という人間を信じたことだ」
自虐的にそういうと、リィドは再び顔を伏せる。
「そうとも。最も愚かなのはこの私だ。だが…………」
脱力していたリィドから、失われていた感情が発せられる。それは相対しているレンジに向けられたものではない。ただ一人、自分自身に向けられた、怒りだった。
リィドは右袖に隠し持っていたナイフをその手に収める。レンジからは机が影になって見えていない。リィドはナイフの柄を必要以上に強く握り締めて、勢いよく体を起こした。
「一太刀報いなければ気が済まんっっ!!」
叫びと共に放たれたナイフが、美しい軌道を描いて白蝋レンジの眉間に吸い込まれて―――――そのまま額を貫通する。
人間をすり抜けたナイフは、背後の扉へと突き刺さった。
リィドが我が目を疑った瞬間、背中に強い衝撃を感じる。何事かと思ったとき、リィドの瞳は、自らの体に生えている奇妙なものに気づく。胸元から伸びるそれは、赤い色をしていた。よく観察すればそれは人間の腕だ。
「貴方は優秀な人物でしたが、たった一つ足りないものがありました」
背中から聞こえた声は、白蝋レンジのものだった。だが、その声がするまで、背後に立っていることが分からなかった。その名が示すとおり、まったくの無音で彼はそこにいた。
そして自分の背中にいるという事実で、もう一つのことが理解できた。
この胸から生えた腕は、自分の体を背中から貫いた白蝋レンジの腕だということに。
「それは、人を信じる心です」
その言葉が聞こえたと思った瞬間、蛇鉤リィドの意識は消えた。
右腕部分を真っ赤に染めた上着を脱ぐと、白蝋レンジは胸に風穴を開けた死体にそれをかぶせた。それとほぼ同時に、部屋の扉が開き、スーツ姿の男達が二人入ってくる。男達はレンジに会釈だけをすると、何も言わずに蛇鉤リィドの死体を運び出していった。
申し合わせたように部屋の電話が鳴る。部屋の主の替わりにレンジは受話器を取った。
『報告を』
「蛇鉤リィドは、職権乱用罪および同盟反逆罪に適応。処分致しました」
『了解した』
一方的に電話は切られる。会話はそれだけだった。受話器を戻すと、レンジは天井を見上げて小さい溜息をつく。何度も繰り返してきたことだが、この空虚さだけはいまだに慣れない。今回はその感情がひときわ強かった。
蛇鉤リィド。
彼が存在したのがここでなかったなら、違う結末を迎えていたのかもしれない。彼は有能だが、組織というものの中に存在できない男だった。
組織という枠の中では我≠消すことが出来なければ生きていけない。
だがそんな中で彼は、最後まで我≠押し通した。
レンジはその一点では蛇鉤リィドを尊敬していのだ。
レンジは振り向くとガラス越しの空を見る。
朱鷺峯エリ。
神威マナト。
この空の下に飛び立った二人は、これからどのように生きるのか。
命じられることはもう無い。自分で自分の舵を取り、進むべき道を選ばなければならない。それは想像する以上に難解なことだ。
自分に信じる神は居ないが、ただ一つだけを天に願う。
どんな道を選ぶにせよ、どんな結末を選ぶにせよ。
二度とこの鳥籠の中に戻らないことを。