chapter.3



 頭に響く甲高い音を立てて閉まった鉄格子が、エリとケイオスを分断した。

 再び牢獄へと監禁されたケイオスは、周りを見渡して、溜息をつく。

「随分と気の利いた待合室だ」

 口調こそぼやいていたが、その表情には何の危機感も浮かんでいない。このような場所などいつでも抜けられるからだろう。ここ以上のセキュリティで守られたエスティア軍の牢獄をあっさりと脱出したのだから、当然といえば当然だ。

「済まないな。君はSSS級危険物扱いだから、野放しにするなと懇願された」

 苦笑したエリに、ケイオスは肩をすくめる。

「まぁ、マスターがそう言うならば私はここで待つさ」

 ひとまずは納得したらしい彼はぱちん、指を鳴らす。豪勢なソファを生み出すと優雅な動作でそこに腰掛けた。何の脈絡も無く出現したソファに、エリの隣にいた警備員は驚いていたが、彼女は平静を保っていた。彼の行動にある程度免疫ができていたせいだろう。

「それほど時間はかからない」

 エリはそれだけを言い残すと、きびすを返して牢獄に背を向けた。それゆえにケイオスには分からなかった。彼女の瞳に浮かんでいた、決意の光に。

 

 

「朱鷺峰エリ、参りました」

 彼女は部屋の中央に直立不動で立つ。視線の先には二人の人物。エリと同じく直立しているのが、陸軍実働分隊特殊作戦部隊【夜烏】室長・蛇鉤リィド。その表情は固く引き締まっており、エリに見せていた不遜な態度はまるで無かった。それもそのはず。この部屋の主は彼ではない。

 白髪の交じり始めた頭髪を分けた男が、革張りの椅子に腰掛けている。皺の目立ち始めたその表情は一見温和そうに見えるが、その瞳には年齢を感じさせない力強さがあった。指先を合わせてデスクに置かれた手には、無数の傷跡が見える。肉体はスーツの上からでも分かるほど頑健だ。

 陸軍実働部隊【是空】統括局長・六呂シズマ。エリの所属する軍の頂点にいる人物だ。

「待っていたよ。まぁ楽にしてくれ」

 張りのある低音が響く。エリは素直にそれに従い、少しだけ姿勢を崩す。シズマの指が、デスクの上にある報告書の束を軽く叩く。

「概略は報告書で確認させてもらったが、理解できない部分が多い。当事者である君の口から詳細を聞いておきたいと思ってね」

「わかりました」

 シズマは指先をそろえたまま、わずかに椅子にもたれかかった。

「簡潔に答えてくれ。君がエスティア軍医療総合研究所から持ち帰った『ケイオス』とは、一体何なのだ?」

 その問いに、答えというものが存在するのかどうか疑わしい。だからエリは自分の目で見たことをそのまま伝えることにする。

「私にも彼の全ては見えていません。一つだけ言えるのは、ケイオスは我々の常識≠ニいう枠を超えた存在だということです。人間が理解≠ナきる範囲、とも言い換えられますが」

「常識…ねぇ」

 皮肉げな言葉はリィドの口から放たれた。確かに伝聞だけでは、それこそ話半分にしか伝わらないだろう。エリとて、あの場に居合わせなかったら信じられなかったに違いない。シズマは口を挟むことなく、ただ静かに彼女の言葉を聞いていた。

「私は一度だけケイオスの能力を目撃しました。相手は二十名弱の三個小隊。熟練の傭兵部隊でした。彼はそれに単独で相対し、全員を五分程度で殲滅しました。その最中、彼は銃弾を曲げ、指一つ触れずに人間を圧縮し、血液から作り出した刃で人間を粉までに乾燥させ、散弾銃で頭部を吹き飛ばされても、瞬時に再生しました」

 押し殺した笑いが聞こえる。リィドだった。彼は「失礼しました」と形だけの詫びを行う。

「まるで子供向けのアニメやコミックの話だな。信じろと言われるほうが困難だ」

 辛辣な言葉だが、エリは動じていない。彼女は偽りを述べているわけではないからだ。シズマも口にこそ出さないがリィドと同じ意見のようで、デスクに肘をついた。

「……言葉では限界があるのは分かりますが――」

「ならば、我から話せばいいだけの事ではないか」

 エリの言葉に被せて聞こえてきたのは、この場にはいないはずの声だった。

 耳鳴りのような音と共に、エリの背後の空間が歪んだ。ねじくれた景色から、黒い布が飛び出してくる。それは翼のように広がり、歪みが消えると同時に、元へと戻る。

 そこに現れたのは、革帯が巻きついたコートを着込んだ長い金髪の男。ケイオスだった。

 彼は、唐突な登場の仕方に言葉を失っている二人を悠然と眺める。初めにシズマを、次に傍らに立つリィドを。そして何を思ったのか。口元を吊り上げたケイオスが浮かべた表情は、嘲笑だった。

「貴様ッ!!」

 いち早くそれに反応したのは、リィドだった。手を差し入れた懐から二本のナイフを抜き出す。そのまま無駄のない動作で、飛翔する刃がケイオスへと襲いかかった。そのナイフが顔面へと突き立つかと思った瞬間、ケイオスの姿がコマ落としのように消えた。

「―――っ!?」

 リィドが息を呑んだのは、眼前で起きた光景にではない。いつのまにか背後へと存在している人物の事と、その人物が自らの首筋に突きつけているのが、先程投擲したはずのナイフという二つの事象だ。

「挨拶にしては随分と物騒なことだ。汝は客人への礼儀というものを学ぶべきだ」

 硬直しているリィドに、平然とそんなことを言っているのは、説明するまでもなくケイオスだ。からかうように、リィドの首筋にナイフの切っ先をぴたぴたと当てている。

「止めろ、ケイオス」

 エリが静止をかける。ケイオスは素直にそれに従い、またコマ落としのようにエリの背後へと戻った。背中から気配が消えたことを悟ったリィドは、しばし呆然としていた。だが、ナイフを当てられた場所に指を這わせたとき、じわりと滲んだ血を確認する。先程の事が幻でないことの証だった。

 エリが二人に「申し訳ありませんでした」と深く頭を垂れる。リィドは不快な表情を崩さない。静観していた側のシズマは、眼前で起きた事象を整理するように目を閉じている。そのままでシズマは口を開く。

「朱鷺峯君。どうやら君の言葉は信ずるに値するようだね」

 その言葉に、ケイオスが反応する。

「当たり前だろう。マスターの言葉は全て真実だ。汝らがそれを認めなかっただけだ」  挑発ともとれる言葉だったが、シズマは悠然と微笑んだだけだ。

「済まないね。人の上に立つものとして、自らの行動には責任を持たねばならない。慎重でいるに越したことはないのだよ」

 懐の深い態度に、ケイオスもそれ以上は何も言わず、同じく口元だけのわずかな笑みを返して沈黙した。

 仕切りなおすようにシズマは一つ咳払いをした。

「さて、真実であると分かった以上、朱鷺峰君にこれ以上質問することはないだろう。後は、ケイオス君。君に一つだけ確認しておきたいことがある。よろしいかな?」

「答える価値のある問いならば、応じよう」

 尊大な返事に、シズマの口元が少しだけ緩んだ。が、すぐに引き締められた。

「質問は一つだ。君は、我々に敵対する可能性があるかね?」

 その言葉に、ケイオスは首を傾げた。

「No≠ネらば何も問題は無い。だがもしYes≠ニいう答えが帰ってくるのならば、私は君をこの場で始末しなければならない」

 空気が、変わった。

 体感温度が急激に変化したかのように、この場にいた人間たちの背に冷たいものが走る。エリには、変化の現況はすぐに理解できた。ケイオスの周囲から溢れている「何か」が、空気を変質させている。

 わずかに怒りを浮かばせた魔眼が、紅く揺らめいていた。

「ほぅ、実に興味深い。汝如き矮小な存在が我をどうするというのだ? どうできるというのだ?」

 彼の矛先は、シズマただ一人に向けられている。圧倒的なその威圧感をシズマは顔色一つ変えずに受け止めていた。

「敵わぬと分かっている相手に挑むのは、無謀だ。だが、それを理解していても挑まなければならない。命を尊ぶよりも優先されるべきことが私にはある」

 シズマの瞳は、魔眼に勝るとも劣らぬ輝きでケイオスを射抜いている。鋼の如き意思が具現化した鋼鉄の瞳だった。

 双方の視線が重なり、空間に見えない火花を飛ばす。それは激動なる闘争とは正反対の、静寂の闘争だ。一歩でも退いてしまえば、その瞬間敗北する。

 張り詰めた空気。凍りついた時間。

 永遠に思えた十秒ほどの対峙。

 退いたのは、ケイオスだった。腕を組んで、押し殺した笑い声を上げる。

「安心するがいい。我にとっては人間の作り上げた存在など、全てが紙細工のようなものだ。わざわざ壊しなどせん。最もマスターがそれを望むなら、我は全霊を持って破壊させてもらうがな」

 その言葉で、ようやくシズマも笑みを浮かべる。

「是非、そうして頂きたい」

 緊張感が霧散してようやく空気が元に戻り、エリは安堵することができた。穏やかな空気が室内に満ちていくのと共に、シズマは再び椅子に背を預けた。そして報告書に目を通しながら言う。

「さて、残るはケイオス君の所属なのだが、どうしたものかな…」

 思案するシズマに、それまで黙していたリィドが口を開いた。

「報告から、彼は朱鷺峰エリを主人と崇めているとのこと。必然的に彼女の所属物ということになります。ならば、朱鷺峰エリの居る我が【夜烏】部隊に所属させるのが、適切な判断かと思いますが」

 シズマは横目でリィドを見る。彼の表情は何の感慨も浮かべていない。能面が張り付いたような顔だった。シズマは合わせた指先の人差し指だけを付けたり離したりしている。思考中の癖だった。

 誰も何も語らないそんな空気の中。機会を窺っていた一人が、口を開いた。その瞳に決意を宿らせて。

「恐れながら局長。その件に関して、私から一つ提案があります」

 それは彼女、朱鷺峰エリだった。

 その突然な発言に、何故か露骨な不快感を示したのはリィドだ。

「……何を提案するというんだ。一兵卒の意見を我々が聞き入れるなどと甘い考えがあると思うか。随分と思い上がった考えだなSWORD OF QUEEN=H」

「落ち着きたまえ、リィド君」

 放っておけば永遠と喋り続けそうなリィドを、穏やかなシズマの声が制する。

「すぐに感情を発露するのは、君の悪い癖だ。提案などただ一つの無力な言葉に過ぎない。聞いた上で不快に思うのならば却下すればいいだけの話だろう」

 リィドは口だけは閉じだが、その瞳は到底納得はしていなかった。

 聞こえないように溜息をつくと、シズマはエリに向き直る。

「さて、提案とは何だね、朱鷺峰君?」

 促された彼女は小さく呼吸を整える。そして、告げた。

「私の軍籍を本日付けで解除して頂き、恒久的任務と致しましてSSS級危険物であるケイオス≠フ監視としての任に就かせて頂きたいのです」

 

 

 その言葉にケイオスは困惑し、シズマは瞳に驚愕を張り付かせ、リィドは激昂した。

 ガン、とデスクから鈍い音がした。叩きつけられたリィドの拳だ。

「貴様は何様のつもりだSWORD OF QUEEN=I? 増長も、身勝手も、自意識過剰も甚だしい。不快だ。実に不快だな!! 貴様の立場というものを、いまここで再教育してやろうか、朱鷺峯エリッッッ!!」

 再びデスクから鈍い音が響き、リィドの言葉を遮った。今度はシズマが叩きつけた拳の音だ。

「……落ち着きたまえ、室長。私は同じ言葉を二度言うのが嫌いだ」

 静かなる鋼の威圧感がリィドを打つ。まるで背後から首を絞められるような息苦しさを感じ、リィドの激情は沈静化していった。

「…………失礼しました」

 引き結ばれた口元から、彼が必死で自制していることが分かる。シズマはリィドにも聞こえるように大きく溜息をついてから、再び彼女に向き直った。

「さて、朱鷺峰君。提案というものを相手に押し通すには、確固たる理由が必要だ。それを聞かせてもらえるかね」

 ゆっくりと頷いて、エリは説明という名の説得を開始する。

「ケイオスの持つ力は、人間の使役できる範疇を超えています。それはつまり、人間にとっての不可能≠も可能≠ノしてしまうということです。それほどの力を一つの軍隊が所持する。その意味を考えれば起こりえる事態は想定できます」

「争奪戦、ということかね」

 シズマの返答は的確だった。

「この情報が外部へと流出すれば、九分九厘、襲撃を受けるでしょう。それを防ぐ為に、徹底した情報管理体勢を敷いたとしても、内部からの造反者が生まれます。発生確率としては造反者の方が高いでしょう。圧倒的な力≠フ誘惑に勝てるものは少数です。仮に造反者が皆無だとしても、上層部が黙ってはいないでしょう。陸軍という彼らから見れば一つの駒に、自分達を殲滅できる力を持たせることを、いつまでも放置しておくとは思えません」

「百害有って一利無し、ということか。その打開策として、君は先程の提案を申し出たのかね?」

 エリは肯定した。

「意図的に情報を流します。朱鷺峯エリが、エスティア陸軍から奪還したSSS級危険物指定・大量殺戮兵器【ケイオス】を使用し、軍と上層部を脅迫。数億の資金を奪い逃亡した=v

「成る程な。自らが撒き餌となる事で、奪還者、もしくは金に目の眩んだ強奪者共の矛先を軍部から自分へと向け、同時にその勢力をケイオス≠フ力を用い殲滅。さらにその場に自らを置くことでケイオス≠監視。その力の暴走を防ぐ。一石三鳥の計画を言う訳か」

 リィドがエリの言葉を補足する。だがその口調は、彼女を擁護するというよりは非難するものだった。それを証明するかのように、リィドは続けた。

「だが、この案には致命的に欠けているものがあるな、SWORD OF QUEEN=v

 エリは答えない。ただ前を見据えている。リィドはその態度に気づいているのか、語気を荒げていった。

「お前だよ、朱鷺峯エリ。この説は全てお前が『忠実に監視役をこなす』という前提の下に機能している。だが今までの会話の中に、それを裏付ける証拠は何一つない。つまり、これは理想論だ。子供の幼稚な夢物語に過ぎん。こんなものが認められるとでも思っていたのか?」

 嫌味たらしくエリを責め立てるリィド。だが彼女は黙したままだ。いや、彼女は最初からリィドの言葉など聞いていない。彼女の視線は、常にシズマへと向けられていた。そして対するシズマも、三度鋼をその眼に宿し、彼女に正面から相対している。

 当然のことだ。エリが相手にしているのはリィドではない。陸軍実働部隊【是空】統括局長・六呂シズマただ一人なのだ。

「朱鷺峯君。確かに説得力はある。だがリィド君の言うとおり、この説には信ずるに足る確証がない。その点に関してはどうするのかね?」

 エリは数瞬だけ瞳を閉じる。それは、彼女がこれから起こすべき行動への決意を固める為の儀式だった。

「言葉を何度重ねてもそれはただの言葉に過ぎません。ですから、私の決意と覚悟の程を、この場で示したいと思います」

 そういった彼女の左手が、左腰の【風神】を握り締める。

「ケイオス」

 このやりとりを興味深く見守っていたケイオスに、エリは唐突に呼びかける。

「絶対に口出しをするなよ」

 その言葉の意味するところを理解するには、猶予期間は短すぎた。

 エリの右手がシズマに差し出されるように上げられた。左手が【風神】を抜き放つ。極薄の刃が向かったのは、自分自身の右腕。

 ぼと。

 床の上に落ちたのは、その場にいる誰もが予想しえない物。その後を追うように、赤い液体が落花する。その液体は、カーペットとその物体を覆い隠そうとするように降り注いだ。

 切り落とされたエリの右腕が、そこにあった。

「……!! ますた――」

「黙っていろ、ケイオスッ!!」

 近づこうとしたケイオスの行動をエリが一括する。それまでの彼女からは想像もできない言葉に、ケイオスの足は止まってしまった。

 シズマは目の前の光景を目にしても、表情を崩さなかった。ただし全く変化が無かった訳ではない。その瞳がほんのわずか、驚愕に見開いていた。

 右腕を切り落としたエリは、ゆっくりとシズマへと歩み寄る。その間にも切断面からは、心臓の鼓動に合わせぼたぼたと血が落ち、カーペットに斑模様を加えていた。机を挟んだ位置まで進んだ彼女は、左手の【風神】を手の中で回転させる。刃の部分を握り、柄をシズマへと差し出す。

「足りないと仰るのならば、残る左腕と、両足とを切り落として下さい。監視≠ネらば、両目があれば十分です」

 血液を失って青白い肌の彼女だったが、瞳だけは力を失わずシズマに対していた。

 近距離で二人の視線が交錯する。シズマは彼女の瞳を覗き込む。もし心に嘘偽りがあれば、彼には瞬時に見抜ける。この行為が、本当に本心であるのかどうか。

 シズマの手が、ゆっくりと【風神】の柄を握った。ナイフの切っ先が、エリの左腕へと移動する。刃がわずかに衣類に触れる。それでも、彼女の瞳は揺るがなかった。

 そこで、ようやくシズマの口が笑みを浮かべた。

「君が過去に行った功績を鑑みれば、右腕以上は必要ないだろう」

 ナイフを回転させ、彼女へと差し出す。エリは小さく微笑みを浮かべてそれを受け取り、左腰へと戻した。

「ケイオス君。彼女を治療してあげてくれ。君ならできるのだろう」

 ケイオスはシズマにではなくエリに伺いを立てた。彼女は青白い顔で肯定する。

 ぱちん、とケイオスが指を打ち鳴らす。すると一瞬でエリの傷口が、数年前の古傷であったかのように治癒した。同時に、床を汚していた彼女の血液も綺麗に無くなっている。唯一、切り落とされた腕だけはそのままで残っていた。

「さて、これ以上彼女らがここにいる意味は無いだろうな」

 シズマの一言に、リィドが噛み付いた。

「まさか……認めるというのですか!? 朱鷺峯エリの申し出を」

「彼女は我々に自らが提案する事柄の内容を、納得できる形で説明し、それを全うするという決意と覚悟を表明してくれた。これ以上何か必要かね?」

「…………っ」

 さすがのリィドも反論する言葉を持たなかった。これ以上は、彼女と同じ道を辿らなければならないだろう。自己を犠牲にしてまで食い下がる意味も理由も、彼には存在しなかった。

「……失礼します」

 リィドは一秒でもここにいたくない、といった態度で、部屋を出て行った。その様子にシズマは一つ溜息をつく。だがすぐに表情を戻し、エリへと向き直る。

「それでは、陸軍実働分隊特殊作戦部隊【夜烏】所属隊員・朱鷺峯エリ」

 彼女は姿勢を正し、表情を固めた。

「本日、十五時二十三分。現時刻をもって、朱鷺峯エリの軍籍を解除。同時にSSS級危険物指定【ケイオス】の監視任務を命ずる。尚、これは恒久的任務として扱われる。帰還・報告は必要としない、以上」

「拝命いたしました」

 エリは残った左腕で敬礼を行う。そして踵を返して、部屋の扉に手をかけた。そしてふと思いとどまり、振り返った。

 こちらを静かに見ているシズマに、エリは深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 その一言を言い残すと、今度こそエリは部屋を出て行った。

 

 

 セルモーターの起動音と共に、車のエンジンが作動する。

 陸軍本部の正面玄関から、ちょうど正反対に位置する通用口。普段は人の出入りが無いこの場所に、一台のオープンカーが停車している。

 朱鷺峯エリはトランクに自分の荷物を入れる。もともと私物が少ないので、小さな鞄一つだ。ケイオスは運転席でハンドルを握っている。何か考え事でもしているのか、その表情はどこか茫洋としている。

「見送りがこうも寂しいと、どこか味気無いものだね」

 そう呟いたのは、六呂シズマだ。柔和な笑みを浮かべた彼の顔は、先程とは別人のように優しい。その微笑だけを見れば、彼が陸軍実働部隊【是空】の統括局長であることなど信じられないだろう。

 トランクを閉めたエリは、微笑を浮かべる。

「局長がお見送りに来て下さったのです。これ以上望むのは贅沢でしょう」

「そう言って貰えると、私は助かるがね」

 シズマは笑った。しかしその声も長くは続かなかった。尻すぼみに消えていく笑い声と共に、寂しさと悲しさが入り混じって表情が浮かんだ。

「………」

「………」

 二人は目を合わせたまま、互いに言葉を発しない。話すべきことはあるのに、それが言葉として口から出てこない。そんな状態だ。

「………朱鷺峯君」

 シズマが重い口を開き、エリに問い掛けた。

「後悔は、無いのかね?」

 深く、静かな言葉。あの時のような。

 シズマの感情を代弁したその言葉はエリを優しく包む。それは、慈悲と呼ばれるものだった。それを受け止めた彼女は、静かに瞳を閉じる。

 蘇るのは記憶。感覚の失せた皮膚。暗がり。触れることの出来ない温もり。奇異の視線。刃を伴った言葉。凍えた心。

 差し出された手。唯一の暖かな記憶。

 エリは無くした右手に在り続けた感触を、そっと思い返した。

「私がここに居るのは、貴方が道を示してくれたからです」

 顔を上げた彼女の穏やかな瞳には、確かな意思があった。

「これは、私が選んだ道です」

「…………そうか」

 ゆっくりとその言葉を飲み込んだシズマは、浮かんでいた感情を片隅へと追いやり、優しく微笑んだ。

「健やかにな、エリ」

 エリは溢れる思いをせき止めて、深く頭を下げた。

「お世話になりました」

 惜しむようにゆっくりと、エリは助手席のドアを開けて乗り込んだ。ドアを閉める音と共に、立ち止まりたい感情を吐き出すように、大きく息を吐く。そして顔を上げた。

「行こう」

「了解した、マスター」

 ケイオスはギアをローに入れ、爆発的なエンジン音と共に車を加速させた。一度だけエリがシズマの方に振り返る。滑るような景色の中でエリは、自分を見送るシズマの姿にもう一度頭を下げた。

 かすかな土煙の残った場所で、シズマは自分の右手を見た。

 シズマは未だに後悔している。

 あの時、道端にうずくまっていた少女に手を差し伸べたことを。

 もし自分が彼女の手を取らなければ、彼女を組織という歯車にはめ込むことも無く、その手を血で染めることも無かっただろう。もしかしたら、平穏な人生という選択肢を手にすることも出来たかもしれない。そう思うたびに、シズマは自責の念に苛まれる。

 だが、それでも。

 差し出した手を恐る恐る握り締めた、小さな手の少女が。赤の他人である自分を、父親のように慕ってくれた事が、幸せで無かったといえば嘘になる。今まで生きてきた焦土のような人生の中で、どれほど彼女の存在に心を癒されたか分からない。彼女からすれば、拠り所が欲しかっただけなのかもしれないが、それでもシズマは幸福だったのだ。

 そんな葛藤を抱えながら、シズマはいつしか心に決めていた。

 エリがいつか、誰に命じられた訳ではない、自らの意思で自分の下を離れようとする時、彼女を縛ることなく旅立たせてやることを。

 そしてその日が来た。

 もはや見えなくなった彼女に、シズマは最後の一言を添えた。

「ありがとう……エリ」

 その言葉が風に消えていくと共に、シズマはようやく歩き始めた。

 いつまでも感傷に浸っているわけにはいかなかった。最後の仕事を片付ける為に、彼は陸軍本部内への扉を開けた。

 

 

 リィドは怒りを吐き出すかのように、自室の扉を荒々しく閉める。

「………」

 眉間に苛立ちの皺を刻んだまま、革張りの椅子に腰掛け、デスクの上へと両手を投げ出す。その手はきつく握り締められ、爪が皮膚に食い込んでいた。

 ぎし。ぎし。

 限界まで食いしばった歯が軋む。小刻みに震える右手の甲に、左の指が突き立てられる。四指が皮膚を抉り取り、朱色の肉を覗かせた。

「……やって…くれるじゃ……ないか………ッッ……………朱鷺峯エリィィィ………」

 リィドの顔には、殺意にも近い怒りが浮かんでいた。

 それは勿論、先程の朱鷺峯エリに対するものだ。【夜烏】室長である自分を追い越して、【是空】局長の六呂シズマに対してケイオス≠フ所有権を認めさせた、その事にである。

「………駒ごときがっ……………羽虫如きがっ…………蛆虫如きがっ………」

 途切れることなく怨嗟の言葉が続く。それもそのはず。本来ならこの瞬間に、彼の手中には在ったはずなのだ。目的としたものが。それが掌から滑り落ちてしまったことに、零れさせた元凶に、リィドは憎しみを覚えた。

 リィドは、ケイオスを手に入れようとしていたのだ。

 エリに『α』奪還の任務を与えたとき、彼はすでにケイオスの正体を知っていた。その能力と、性質についても。エリの任務成功率と行動原理を考えれば、確実に契約≠行うことを予測できた。そしてケイオスを確実に持ち帰ることも。

 順当に考えれば、エリはケイオスのマスターになる。それはエリを部下として手中に収めている自分が、間接的にケイオスを手に入れる事に繋がる。その状況さえ作り出せれば良かった。そしてそれは叶うはずだった。

「……………す……殺す………殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」

 リィドは半月に裂けた笑みを浮かべた。その意思が彼の中で決定された時、次に取るべき行動は決まっていた。リィドは荒々しく受話器を取り、内線で呼び出しをかける。

「……私だ。SMILE OF JACK≠緊急召集させろ」

 それだけを告げ、受話器を置いた。

 リィドの舌が、自ら傷つけた右手の甲を舐めた。血の味を噛み締める。そして横隔膜がひきつったような笑い声を上げた。

「いいだろう、朱鷺峯エリ……貴様の愚考を後悔させてやろう」

 タイミングを計ったように、ノックの音が聞こえる。リィドは凶悪に歪んでいた表情を『室長』としての顔に戻した。

 そして声色を落ち着かせ、ドアの向こうに居る者に告げる。

「入りたまえ。 SMILE OF JACK=v

 

 

 蛇鉤リィドの部屋に来客があってから、十数分後。陸軍本部施設・第二へリポートから一機のヘリが飛び立った。たった一人の男を乗せて。

「目標は三分前に本部を出発している。領空圏内に居る間に捉えなければ面倒になる。飛ばせ」

「了解」

 操縦者の返事を聞き、男はヘリの座席に腰を下ろした。

 乗っているのは若い男だった。やせ気味の体に、重々しいコートを身に着けている。寝癖のようにぼさぼさの黒髪が、目元をわずかに覆っている。瞳にあるのは、機械のような無機質な光。まるで意思というものを剥奪されたようなその目と同じで、その顔にも何の感情も浮かんでいない。

 彼は右太腿のホルスターからハンドガンを取り出すと、装填されていたマガジンを取り外し、着ているコートから取り出した新たなマガジンを装填する。同じ動作を、左太腿のホルスターにあるハンドガンにも行う。二丁のハンドガンをホルスターに戻すと、彼は無機質な声で、自らが受けた任務内容を復唱した。

「SMILE OF JACK=@神威マナト。これよりSSS級危険物指定【ケイオス】、及び反逆者・朱鷺峯エリの抹殺任務に入る」







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