chapter.2



 クライン=エルドシュタインは、走り寄ってきた部下の報告を受ける。

「A小隊、制圧体制に配置完了。B小隊はA小隊の後方に配置し、支援体制。C小隊はエレベーター付近の警戒体制。救援部隊への対処に当たっております」

「各員、体制を維持したまま、静聴」

 全員の耳が、クラインの言葉に向けられる。

「侵入者は、我々に察知されることなくここまで潜入し、道中でD小隊を無傷で殲滅している。驚愕すべき相手だ。如何なる手段を用いてくるか不明だ。総員、警戒を怠るな」

「サー、イエス・サー!」

 力強い部下たちの復唱が返る。それを頼もしく思いながら、クラインは前方を見据える。

 重々しく、堅牢な扉が見える。普段は無機質な灰色に見えるそれは、今はどこか禍々しく感じる。それは自分の中にある不安の表れなのか、それとも中に居るものの為か。それを表に出さないように、クラインは苦い唾を飲み込んだ。

 不意に電子音が鳴り響く。その音源は、扉の横に設置された端末からだった。誰も触れてもいないそれが、勝手に扉のロックを解除していく。

「A小隊、扉に照準を合わせろッ!!」

 号令と共に、銃口が一点に集中する。銃口の固定と共に訪れた沈黙の後に、扉がゆっくりと開いていった。

 硬質の床に靴音が響く。闇の中から這い出てくるものが一人。蛍光灯に照らされたその影は、徐々に姿を現していく。

 革帯の巻きついた黒いコートの上を、長い金髪が覆う。うつむいたままの姿勢から表情は読み取れない。目の前にある無数の銃口を気にも留めず、ゆっくりと歩いてくる。

「………こらえろよ。まだ射程外だ」

 小声で伝令を飛ばす。クラインの視線はただひたすら歩いてくる男との距離を測る。

(………あと四歩………三歩………二歩………!!)

 あと一歩で射程内というところで、男の歩みが止まった。

 まるでこちらの思考を読んでいたかのようなタイミングに、クラインは不気味なものを感じた。次の行動が読みきれないクラインをあざ笑うかのように、男がゆっくりと顔を上げていく。覆い隠された表情が垣間見える。クラインの瞳に映ったのは、鮮烈なまでに赤く光る、ケイオスの左目だった。

(……………!!? ………)

 クラインは一瞬、自分の記憶が飛んだことを感じた。そしてそれは実証されていた。目の前にあったはずのケイオスの姿が消えていたのだ。

「なッ………?」

 うめき声をあげるクライン。だが次の瞬間、彼は凍りつくことになった。

「汝が、この部隊の長か」

 背後から聞こえてきた声は、あまりにも美しくクラインの耳朶を打った。振り向いたクラインの背後には、先程まで通路の真正面に居たはずのケイオスだった。

 彼の顔が驚愕へと変わる前に、ケイオスが三本の指を立てた。

「汝らには三つの選択肢がある。一つ目は降伏しここから逃亡すること。二つ目は抵抗せずに我らを逃がすこと。三つ目は皆殺しだ」

 淡々と何の感情も込めずに言うケイオス。唐突な出現とあまりにも場違いな言葉に、クラインの脳は数秒ほど停止していたが、ようやく回復した。

「…お前が『α』を奪還しにきた侵入者なのか」

 彼の言葉を待っていたケイオスは、その返答に端正な顔を歪ませながら肩をすくめる。

「それは我がマスターに対する侮辱だな。私はケイオス。忠実なる僕だ。まぁ、汝らは私のことを『α』などと呼んでいたようだがな」

 ケイオスにしてみれば何気ない発言であったのだが、クライン達にとっては核爆弾を落とされたにも匹敵する台詞であった。あれほどに秘匿されていた『α』の正体が、目の前にいる男のことだとは思えなかったからだ。だがその事実を飲み込んだ上で見たケイオスは、確かに普通の人間ではありえなかった。

 それは、瞳。

 覗き込めば精神をまるごと飲み込まれそうな、魔眼とでも呼ぶべきその瞳が、人間ではありえないことを物語っている。

「さぁ、猶予はあまり与えてやれない。選ぶがいい」

 爛々と輝く瞳に自己を飲み込まれないよう、必死の抵抗をしながら、クラインは言う。

「生憎だが、初めて会った貴様の言葉を信頼できるほど、俺は人間が出来ていない」

 クラインは右手のアサルトライフルを、ケイオスの眉間に突きつける。

「答えは四。貴様を殺し、侵入者もろとも始末する=v

 突きつけられた銃口など歯牙にもかけていないケイオスが、目を細めて笑う。その赤い瞳に浮かんだのは恍惚の感情だ。唇が無意識に言葉を紡いでいる。

「絶対的な大敵を目の前にしても一歩も引かぬその胆力。そして前を見据える強靭な意志。素晴らしい。素晴らしいぞ、人間」

 その唇が愉悦に裂け、真っ赤な舌が唇を舐めた時、ケイオスの体は後方へと飛んでいた。そして着地したその場所は、ちょうどクラインが彼の魔眼に射抜かれた地点だった。

 ケイオスの両手がゆっくりと広がる。そのシルエットが十字架を形どり、背後の主を護るようにそびえたった。

「さぁ、始めよう。血と肉と内臓と骨の軋み合う殺戮という名の舞台を」

 言葉と共にケイオスのコートが翼のように広がった。それは天界から追放された堕天使の如く、光を映さぬ漆黒の翼だった。

 

 

 轟音と共に、弾丸の群れがケイオスへと殺到する。それは上下左右に一切の逃げ場を作らない制圧射撃。死神の鎌を振り下ろされたケイオスだったが、彼は優雅といえる仕草で右腕を掲げた。

 その右腕に近づいた瞬間、全ての弾丸が軌道を変えた。上下左右の壁に弾丸がめり込み、ケイオスには傷一つ与えることが出来なかった。

 銃を構える傭兵達の表情が、驚愕に変わる。対するケイオスは、これが当然だと言わんばかりにその顔に何の変化もない。いや、変化はあった。四方に弾かれる弾丸の向こうに見える光景。自分の手にある武器が通用しないことを認めたくないが為に、必死で引き金を絞る人間。それらを眺めるケイオスは、落胆したように目を伏せた。

 彼は弾丸を弾く右手をそのままに、そっと握っていた左手を開く。赤い左目が揺らめいて、いまだに弾丸を浴びせ続ける傭兵の一人と視線を交錯させる。

 びくん、と電流を流されたように、ケイオスと目を合わせた傭兵が立ち上がる。周囲の仲間達がいきなりのその行動に銃撃を止める。

 ケイオスはゆっくりと、開いた左手を今までより高く上げていく。それに伴い、立ち上がった傭兵の体がゆっくりと宙に浮き始めた。兵士たちにどよめきが走る。

 小さい溜息と共に、ケイオスの唇が独白を始める。

「銃器というものは、人間の英知が生み出した有能な殺戮兵器だ。個人の能力に左右されずに、指先一つで対象の生命活動を停止させる。ある種、究極の兵器を言っても他言ではないのだろう。……ないのだろうが」

 左手の指先がぴくり、と動く。

「…………だが、無粋だ」

 ケイオスは左手を少しだけ閉じる。その瞬間、浮かんでいた兵士の体からごき、という不快な音が聞こえた。同時に響き渡る、絶叫。

 彼の体が、普段よりすこしだけ縮んで(・・・)いた(・・)。 性格には手と足。体の先端の骨と肉を砕かれていた。何人かは浮かんだ彼を引きずり下ろそうとするが、彼の体はぴくりとも動かない。

「研鑽に研鑽を重ねた技術と、鍛錬に鍛錬を重ねた肉体とが奇跡的な調和を果たし、その両方が鬩ぎあい、凌ぎあうのが真の闘争と呼ぶべきものだ」

 ケイオスの左手がさらに閉じる。今度は腕の骨が、人間には絶対作り出せない破壊の音と共に縮んだ。兵士の喉がさらなる絶叫を搾り出す。だがこれだけのことをされているのに、血の一滴も彼の体からは流れなかった。そのせいで、凄惨な光景であるはずのものが、まるで悪夢を見ているような、そんなぼんやりとした奇怪さがあった。

 だが耳をつんざく悲鳴は、これが現実であることを告げていた。

 誰が発したかはわからない。恐怖を打ち破るための雄叫びと共にアサルトライフルが火を噴いた。それを皮切りに次々と銃口が鉛玉を吐き出す。

 ケイオスのかざした右手は、それを無慈悲に弾き返す。

「我が教授しよう。闘争と呼ぶべきものが如何なるものかを」

 まるで天使のように美しく微笑んだ彼は、左手を一気に握りこんだ。連続して響くカルシウムの砕ける音が終わると、そこにはサッカーボールくらいの肉塊が浮かんでいた。

 静止した時の中、ケイオスが左手を開いた。

「おぐるるるぉおぉぉおおぉぉおあああががががぐぐぐぐあああぁぁあぁぁぁ!!!」

 地獄の底から響いてくるような声と共に、肉塊から今までその存在を無視されていた血液が滝のように噴出した。それは上下左右の壁に、周囲にいた人間達に血化粧を施す。視界と体を真っ赤に染められた傭兵達が、一瞬ではあるが平静を失う。再び前方を見据えたときには、ケイオスの姿は無く、代わりに真っ黒なものが視界を埋める。顔を上げたその先には、透き通るような金髪と妖しく光る真紅の瞳。ほんの数歩先の場所に、ケイオスは存在していた。

「聞かせてくれ。断末魔の狭間に響く鮮血の音を」

 左腕に巻きついた二本の革帯が、蛇のように空中でのたうつ。二本の指先が地面を指し示すと、革帯は質量を無視して伸長し床に潜り込んだ。

 瞬間、傭兵達の足元から生まれ出でる、無数の槍。漆黒に染まったそれは、人間の体をあっさりと貫通して宙に縫いつける。五人の人間が残酷な昆虫標本へと変わり果てるまで、ほんの数秒しかかからなかった。

 傭兵達の間に巻き起こる、恐慌。震える指が弾丸を無作為に吐き出す。しかしそれは仲間の体を削るだけでケイオスに何の通用も与えない。それでも、アサルトライフルの咆哮は止まなかった。

 ケイオスは弾丸にダンスを踊らされる死体を前に、嬉しそうに口元を吊り上げた。

「さぁ、まだまだ序の口だ。絶望と悪夢と狂気と恐怖を奏でよう。それこそがこの場における最高級の旋律だ」

 地面を指した指を解く。革帯が瞬時に戻り、無残な姿になった死体を落下させる。しかし、撒き散らされた大量の血液だけがいまだに宙に浮いていた。ケイオスの右手がその血液に触れる。血液が螺旋を描きながら収束し、二メートルはあろうかという長大な真紅の刀身を持つ、極薄の刃へと変化した。

「総員ッ、迎撃体制を維持しながら、退避だァァッ!!」

 恐慌状態にある部下達にクラインの激が飛ぶ。

「最初に予告したはずだな。降伏し抵抗した汝らは、既に選択したのだ。皆殺し≠な」

 逃亡を始めた傭兵部隊に、ケイオスは紅い刃を振りかざした。形状を無視して伸びた刃が、一番近い兵士の体に食い込む。体の半ばまで刃が到達したと思うと、兵士の体が一瞬にして干からびる。ケイオスが作り出した刃が、体中の血液と体液を吸い取ったのだ。乾燥した肉体を真紅の刃が両断すると、分断された体が灰となって崩れた。人間一人分の液体を吸った刃が、ひゅっ、と空気を裂く。次の獲物を待ち焦がれるように、刀身の光が妖しく脈動した。

 無論、傭兵達も黙ってやられていたわけではない。アサルトライフルの弾幕を張りつつ、グレネードをケイオスに投擲してくる。しかし、それら全てを真紅の刃が防ぐ。ケイオスまで攻撃が迫ると、まるで意思を持っているかのように刃から紅い液体がうごめき、弾丸や榴弾を飲み込んでしまう。ぼとぼとと落ちているのは、紅い皮膜に覆われた弾丸と榴弾の残骸だ。

「いくら玩具を駆使しようと、我の前では無意味だ」

 ケイオスの姿が消える。空間を跳び越した彼の姿は、密集する兵士達の真ん中へと出現した。紅い残光が尾を引き、周囲をなぎ払う。一回転した彼の刃は合計十人分の液体を吸い尽くし、その肉体を一瞬にして灰と化した。

 残りは四人。通用しないと分かっている銃器を、それでも懸命に撃ち続ける傭兵達と、この状況下で、それでもケイオスへと敵対行動を見せるクライン。強靭な瞳を受けて、ケイオスの顔に愉悦が浮かぶ。

 それに答えるように紅い刃が唸りをあげる。投擲した刃が空中で分裂し三つの槍へと変化し、兵士達の顔面に突き刺さる。ケイオスの手を離れ、そこでようやく紅い刃が本来の姿を思い出したかのように、血液と体液を爆発的に噴出した。その勢いは凄まじく、三人の兵士の頭部が、内部から爆発させられた。

 文字通りの血霧があたりを覆いつくし、むせかえるような匂いが鼻をつく。真っ赤に染まった世界でケイオスは見た。紅い霧を掻き分ける風、クライン=エルドシュタインを。

 血霧を纏ながら突撃してくるクラインの右手には大口径のショットガンが握られている。銃口は吸い付くようにケイオスの頭部へ。歩数にして二歩半の距離。全ての散弾が相手に命中する距離。クラインの指が引き金を引く。

 だがケイオスの反応はそれより速かった。二の腕に巻きついた革帯が弾丸の速度で動き、一方はショットガンを跳ね上げ、もう一方はクラインの腹部を貫いた。胃からせりあがって来た血液が、吐血として吐き出される。

 その状況下、クラインの顔には浮かんでいたのは、勝利の笑みだった。

 貫かれた腹部がさらに抉られるのもかまわず、クラインの足はもう一歩を踏み出す。鮮血を代償に切り開いたその距離で、繰り出したのは左手。その掌が、太陽に触れたことすらないように白いケイオスの額に接触する。

 左手に仕込まれた指向性爆薬のスイッチが起動し、光と共に弾け飛んだ。

 

 突然の爆発に、エリはとっさに顔面を両手でかばう。生まれ出でた閃光と爆風は赤い霧を吹き飛ばした。まっさらな空間に再び散っている鮮血は、クラインの左腕からだった。動脈が傷つけられているので、早く止血をしなければ命に関わるだろう。しかし彼の思考は、自らの生命の危機に反応していなかった。それはエリも同様だ。彼女らの視線は、完全に一箇所に固定されて動かない。その両目が捕らえているものは、人間の思考を飲み込むには十分過ぎた。

 爆発で上半分を吹き飛ばされた頭部。それが意味するものは完全なる死。生命活動の停止。当然だ。肉体を動かす命令を下す脳が無くなれば、動こうと考えることすら不可能になるのだから。

 だが、笑っていた。

 あらゆる学問や知識や倫理や常識を吹き飛ばして、ケイオスは笑っていた。心の底から嬉しそうに笑っていた。両手を高らかに広げ、体を反らし天を仰いで、口が裂けそうなほどに大きく笑っていた。

「久しぶりだ。これほど充実した闘争はひさしぶりだ。頭を吹き飛ばされる感覚などとうに忘れていた。愉快だ。そして素晴らしい。人間は素晴らしい。愚かで卑怯で矮小な人間だからこそ、我を越えられる。短い生に執着するからこそ、我を打ち破れる」

 饒舌に独白するケイオスから異音が響く。その音源は吹き飛ばされた頭だ。生ぬるい体表の虫が這いずり回るような音。爆発で吹き飛ばされた頭が、まるで巻き戻しの映像のように修復されている音だ。一部だけ残っていた金髪は、生物の如くうねって地面から飛ぶ。そして修復されつつある頭部へと結合した。ばさり、と金髪が広がり、顔全体を覆い隠す。ケイオスはゆっくりとその髪をかきあげる。何事もなかったかのように、美しい顔がそこにはあった。再び赤い魔眼がクラインを見た。前以上に爛々と輝くその瞳に、クラインはもはや抗う術を持たなかった。

 その喉が、かすれた笑い声を上げる。

「まさか、頭を吹き飛ばされても生きているとは思わなかった。私の認識の甘さが敗因ということか」

 クラインの口元が笑みをつくる。その顔は妙に晴れ晴れとしていた。

「同情はいらん。殺すがいい」

 その言葉にケイオスは笑う。その微笑みは狂気が入り混じった今までのものと違い、ひどく優しい顔だった。

 彼の指先がゆっくりとクラインの額に触れる。人差し指が抵抗無く皮膚にめり込んでいく。第一関節まで指が入り込んだ時、クラインの体から力は消えた。がくりと膝を折り、前のめりに倒れこむ。

しかし、彼は死んでいるわけではなかった。いや、むしろ回復していた。出血多量で青ざめていた顔に血の気が戻り、気づけば吹き飛んだ左腕も元に戻っている。無論、ケイオスの仕業であることはあきらかだった。

「我に傷をつけた人間は久しぶりだ。我は汝に敬意を表している。よって殺すことなど論外だ。我は汝の命を救う。しかし、その命をどう使うかは、汝次第だ」

 倒れたクラインにその言葉をかけると、ケイオスはゆっくりと振り向く。その赤い瞳が捉えたのは、扉の前に立ち尽くすエリだった。

「それに、我に命令を下せるのはただ一人。そうだろう、マスター?」

 遠く離れた場所にいるエリに、その言葉ややけに鮮明に聞こえた。だが彼女は何も答えず、ただ眼前の光景を見ていた。

 上下左右の壁にへばりついた血液と、空気中に漂う人間だったものの砂埃。紅く染まった空薬莢。凄絶なまでに壁に穿かれた弾痕。理不尽な力に蹂躙された、人間たちの末路。この凄惨な光景の創造主は血だまりの中に悠然と立っている。こちらににこやかな笑みを浮かべて。

 ケイオスが右手の指をぱちん、と鳴らす。変化は一瞬だった。

 気づいたとき、そこには何も無くなっていた。飛び散った血液も、人間の残骸も、破壊された壁も、全てが夢だったかのように、綺麗になくなっていた。ただ一つ、生き残りであるクラインの体だけは、そこにそのまま残っている。それだけが、先程みたものが幻想ではないことの証明だった。

 全てを終えたケイオスが、ゆっくりとエリの下へと帰る。その姿に疲れの色など全く無い。むしろ、今までの行為がまぼろしと思えるほど平然としていた。エリの前へと戻ってきた彼が、囁くように言う。

「我が恐ろしいか、マスター」

 彼女を試すように、口元にほんの少しの笑みをつくりケイオスは言った。エリは混乱している気持ちを落ち着けるために、一呼吸おいた。

「ああ、恐いな」

 返答はストレートだったが、胸中は違っている。彼女の声は明るい色をしていた。

 恐怖心が無かったわけではない。むしろあの光景を見て恐怖を持たない人間などいないだろう。彼女が心の平静をいくらか保っていられたのは、たった一つの単純な理由だった。

「けど、私は君よりもっと恐ろしいものを知っている」

 エリの言葉に、ケイオスは少なからず動揺した。今まで出会ったマスターは数多くいたが、こんなことを言われたのは初めての経験だったからだ。興味と好奇心から、ケイオスはエリへと問いかける。

「我には理解できかねるが、マスターがそれほどに恐れるものとは何だ?」

 彼女は謎めいた微笑を浮かべる。その瞳に影が落ちたのは思い返した恐怖のためなのか、それを知ろうとする者への憐れみの為なのか、ケイオスには分からなかった。

「誰でも知っていて、誰でも理解しているが、常に目を背けつづけているものだ」

 謎めいた暗号のような言葉に、ケイオスは虚を突かれた。すぐさまエリに問いただそうとするが、彼女は自分の左腕を彼に突き出した。液晶表示の時計がそこにはある。

「回収時刻まであと数分。お喋りはここで終わりだ」

 それだけを言うと、エリはケイオスの側を通り過ぎ通路を進みだした。煙に巻かれた形になったケイオスは小さく溜息を漏らす。だがこの疑問は今すぐに答えを出さなければいけないものでは無いし、彼女の行動が正しいとも理解した。ケイオスは数メートル先に進んでいたエリの前に一瞬にして移動すると、右手を恭しく差し出した。

「エスコートしよう、マスター」

 あまりにも場にそぐわない台詞にエリは面食らってしまうが、断る理由もなかった。危険を犯さずに脱出できるなら、それに越したことは無い。彼女はゆっくりとその手を握る。ケイオスの表情が笑みをつくると、彼の黒いコートが大きく展開し、二人を包み込む。瞬きする間に、二人の姿はこの空間から消失した。

 後には静寂と、深い眠りに落ちた一人の傭兵だけが残された。







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