chapter.1



 扉が開く。自動式の扉は、一人の男を招きいれて閉じた。

 灰と黒を基調とした迷彩服の上に、ヘッドマスクとゴーグルを装着した男。片手には気だるげに握られたアサルトライフル。軍人、というにはどことなく軽薄そうな雰囲気が漂う。おそらく傭兵だろう。

 男は生あくびを噛み殺すと、部屋に備えてあるベンチに腰掛け、ヘッドマスクを外した。胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、一振りして出てきた一本を咥える。火を付けようとしたが、ライターが見つからないらしく、服のポケットをまさぐり始めた。

 不意に、横から火が差し出された。

「あ、ドモ」

 火に近づけて煙草を吸い、最初の紫煙を吐き出す。

「サボリかね、マーカス君?」

 名前を呼ばれて振り返った男――マーカスは、火を差し出した人物を見て仰天した。

「ク、クライン隊長!?」

 クライン、と呼ばれたその男はジッポの火を消すと、マーカスの隣に腰掛けた。

 同じ色の迷彩服に、同じ武装。唯一違うのは、浅黒い肌と針金のように硬そうな黒髪だ。先程の呼称から、傭兵たちを取りまとめている男なのだろう。マーカスは身体を強張らせて固まっていた。クラインはその肩を軽く叩く。少し皺の目立っている顔が、にこやかに笑みをつくる。

「そう固くなるな。なにせ、俺もサボリなんだからな」

「そ、そうなんですか…」

 そう言うと、マーカスの手の中から煙草を一本拝借し、火をつけた。クラインが紫煙を吐き出す頃には、マーカスの緊張は解けていた。

「どうだ、今回の任務は」

 その質問に、マーカスは苦い顔を見せる。眉根を寄せて煙草を吸い、溜息と共に吐き出した。

「そっスね…正直、意味が分かんないですよ」

「どういうことだ。配置前のブリーフィングを受けていないのか?」

 マーカスは首を横にふった。

「受けました。何なら任務内容を復唱しましょうか?

 当施設――エスティア軍第三研究所の第五ケージに存在する、コードネーム『α』の警護・同時に施設内の警備巡回。尚、期間は研究終了予定日の三ヶ月

 ………でしたよね?」

「どこか不服な部分があるのか」

「大アリです。どうして命をかけて守る護衛対象に関して、僕らにはコードネームしか知らされていないんですか? 対象がどんな物か……いや、物なのかどうかも分からないですね。何しろ見たことも無いんですから。貴様らは何も知らなくていい、ただ任務をこなせばいい≠チて事なんですか? 納得できませんよ」

 マーカスが煙草のフィルターを噛み潰しながら力説した。クラインは対象的に困ったように肩をすくめた。

「詮索屋は長生きできないぞ、マーカス」

「………」

 苦虫を噛み潰したような表情を見せるマーカス。

 クラインは溜息をついた。

「俺も若い頃は、お前のように求めていたさ。仕事に対する意味や価値、なんてものをな。だがな、そんなものは存在しないんだよ」

 クラインは煙を吐く。中空に消えていくそれは、彼の心を代弁していたのかもしれない。

「どう足掻こうと俺たちは、ただの駒でしかない。事実を知る価値は、俺たちには必要ないものなんだ」

 重い言葉が、マーカスに投げかけられる。彼は反論しようとした言葉を、無言で飲み込む。否定できないことを悟ったのだ。彼に出来たのは小さく呟くことだけだった。

「………俺は……そう思いたくないから、俺は……」

 クラインは煙草を揉み消すと、ヘッドマスクと被る。

「休憩は終わりだ。警備に戻るぞ」

 マーカスはいまだ納得できない、といった表情だったが、クラインの言葉を聞き、その顔は臨戦態勢になる。煙草を灰皿に押し付けるとクラインの後を追い、部屋を出て行った。

 

 

(ようやく出て行った)

 二人の傭兵を見送った人物が同じ部屋にいたことに、二人は全く気づいていなかった。

 胸中でつぶやいた声の主は、天井を走るダクトの内側から鉄格子を外す。外した格子をパイプの内側に置くと、するり、と猫のように軽い動きで、通気ダクトから身体を躍らせる。音も無く床に着地すると、即座に扉と監視カメラの死角になる位置に移動する。

 顔だけは兵士たちと同じヘッドマスクとゴーグルをしているが、上下に身につけているのは手首と足首までを覆う漆黒のボディスーツ、無論手袋とブーツも黒。全身を黒ずくめで固めている。腰には、幅広の厚い刃と柄部分が一体成形のカスタムナイフ。この人物はこれを【雷神】と呼ぶ。左腰には薄く、刃渡りの長い鋭利なナイフ【風神】。武装らしきものはこの二つだけであった。

(全く、長話はほどほどにして欲しいね)

 胸中でぼやくと、その黒ずくめの人物は、ベストに多数あるポケットの一つから、なにやら小さな機械を取り出す。カメラの視界に入らないようにしながら部屋の奥にある配電盤に移動して、カバーを外し分解、その装置を取り付けた。表面のカバーを外し、装置を起動させる。緑のランプが転倒したのを確認して、配電盤を閉じた。

 時計に目をやる。デジタルの表示は午前2時5分を刻んでいた。

(起動時間は六十分……か)

 黒ずくめが取り付けたのは、監視カメラへ偽の映像を送り込む装置であり、これを使えばカメラを気にすることなく動くことが出来る。しかし最近は監視モニターへのハッキング対策として、定期的に回線の解除コードを変えていたり、3本の回線を不定期に変えていたりと、さまざま趣向を凝らしてきている。だが、頻繁に変えすぎると、逆にエラーが起きてしまう可能性があるため、ある程度の時間をおかざるを得ないのだ。

 黒ずくめが取り付けた装置は六十分の連続稼動が可能だが、回線や映像処理の方法が場所によって違い、バッテリーの消費量もあやふやな為、あまり信用しすぎてもこちらが不利になる場合が多い。

 だからこそ、潜入には迅速な行動が必須条件となる。

 黒ずくめは通路側の壁に背を当て、フェイスマスクの上から眉間あたりの位置に指を当てる。数秒もしない内にその行為を終えると、自動ドアの側に立って扉を開き、左右の確認もせずにいきなり通路に飛び出した。だが不思議なことに、通路には見回りの傭兵の姿が無かった。黒ずくめはそれを当然と思っていたのか、迷うことなく通路を突き進む。足音はほとんど聞こえない。わずかに音はするが、見張りの足音でかき消される程度だ。

(……思ったより警備の数が多いな)

 黒ずくめは歩みを止めると、ためらいもせず右手にある部屋に入る。中に人は居ない。気配を殺してその部屋で待つと、足音が響いてきた。部屋の外を通り過ぎていったのは、見張りの傭兵だ。足音が遠ざかるのを確認してから、黒ずくめは先程と同じく、眉間あたりに指を当てた。

(現在地は地下二階。見張りは六人。二人がエレベーターの前に固定。四人が一定間隔でフロアを巡回―――)

 まるでレーダー表示を確認するかのように、黒ずくめが声にはださずにつぶやく。そして扉の前で待機する。指先は眉間に当てたままだ。

(……三……二……一)

 左手で薄刃のナイフ【風神】を引き抜くと、扉に近づく。センサーが黒ずくめを感知し、扉を開ける。その目の前に巡回の兵士が居た。兵士は飛び出してきた影に気づく暇もなく、突き出された【風神】に左のこめかみを貫通させられた。

(あと五人)

 ぐるりと眼球が裏返った兵士の服を掴み、部屋の中へと引き寄せる。そのままセンサー感知外まで下がり扉を閉めさせる。黒ずくめは兵士の頭にナイフを突き刺したまま、兵士の装備と服を脱がせていく。そしてそれを自分が着込んでいく。兵士の服が大きかったので、自分のスーツの上からだ。ヘッドマスク以外の装備を全て剥ぎ取ると、黒ずくめは死体から【風神】を引き抜く。その瞬間に傷口に止血帯を当てて、血痕を残さないようにする。その死体は適当なロッカーの中に押し込んでおく。処理を終えた黒ずくめは、完全に兵士たちと同じ格好になった。持っていた二本のナイフは、目立たないようにベストの内部へと仕込んでおいた。

 黒ずくめは再び眉間に指先を当てる。しばらくたった後、扉から出て、巡回の兵士を装い歩き始めた。黒ずくめがいる位置は、先程殺害した兵士がいたポイントと、寸分違わず同じだった。黒ずくめは巡回ルートを正確になぞり、エレベーター前まで到着する。二人の兵士が警戒していた。二人の間の距離はエレベーターを挟んで約三メートル。監視カメラには偽の映像を送っている。通路の前と後ろに巡回の兵士は無い。

 黒ずくめは一人目の前を通過しようとした時、動いた。

 アサルトライフルのストックを、一人目の眼球に叩きつける。瞳を粉々に破壊され、脳までの衝撃を味わった兵士は、即座に崩れ落ちる。

(あと四人)

 二人目が黒ずくめの行動に気づいたときには遅かった。アサルトライフルから手を離した黒ずくめが、ベストの影に隠されていた分厚い刃の【雷神】を引き抜く。銀光が兵士の体に吸い込まれた。構えようとしたアサルトライフルの銃身を切り落とし、【雷神】は二人目の心臓を貫いた。兵士の反撃を許す前に、刃をひねって引き抜いた。四つに切り裂かれた心臓から盛大に鮮血を撒き散らして、二人目が崩れた。

(あと三人)

 血を浴びないように離れると、眉間に指先を当て、黒ずくめは即座に巡回ルートを反対に走り出した。図ったようなタイミングで角を曲がってきた兵士の首を、左手で引き抜いた【風神】が駆け抜ける。鋭利すぎる斬撃に、一瞬遅れて兵士の首から血が噴き出す。

(あと二人)

 そのまま黒ずくめは通路を疾走する。目の前には兵士の姿。兵士の方は、勢いよく迫ってくる仲間の姿に、一瞬戸惑ったが、その後ろに見えた首のかたむいた兵士を見て、状況を察した。アサルトライフルを構え、引き金に指をかけた。その瞬間、視界がブラックアウトする。黒ずくめが【風神】と【雷神】を、兵士の目に一本づつ投擲したのだ。兵士は自分に何が起きたかを理解する前に、ナイフに追いついた黒ずくめに首を百八十度回転させられ、思考力を失った。

(あと一人)

 二つのナイフを死体から引き抜き、鞘に収めつつ、黒ずくめは再び疾走する。その最中に、スリングで体に固定してあったアサルトライフルの安全装置を解除し、セレクター(機能選択)をフルオート(全弾発射)に切り替えた。通路の角を曲がった瞬間に、黒ずくめはアサルトライフルを構える。その銃口の先には、最後の兵士の姿があった。

 消音装置を用いているため、気の抜けた空気の音と共に、弾丸のシャワーが浴びせされた。三十発の弾倉を一秒もかからずに吐き出すフルオート射撃に、兵士の体は不恰好なダンスでもするように踊らされながら、ぼろ雑巾のように体を引き裂かれて崩れた。

(これで全員)

 弾を撃ちつくして銃身が焼けたアサルトライフルを投げ捨てると、黒ずくめはエレベーターの方に戻った。

 まだ監視カメラの有効時間はあったので、普通にスイッチを押してエレベーターを呼ぶ。エレベーター内に兵士がいることを想定し、死体からアサルトライフルを拝借しておく。呼び出し音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。エレベーター内に兵士は居なかった。

 黒ずくめはエレベーターに乗り込んで、地下二十五階のボタンを押した。扉が閉まり、エレベーターが下降していく。

 エレベーターの中で、黒ずくめは用済みの兵士に服を脱ぎ捨てて、もとのボディスーツに戻る。【雷神】【風神】も定位置に戻した。アサルトライフルは分解して使用不能にしておく。その作業を終えると、黒ずくめは顔を隠していたヘッドマスクとゴーグルを剥ぎ取った。

 現れたのは、紫色の髪と瞳をした女性だった。

 彼女はヘッドマスクを捨てると、小声で命令を復唱した。

「SWORD OF QUEEN℃骰峯エリ。これより単独潜入任務、コードネーム「α」の回収に入る」

 

 

「朱鷺峰エリ、参りました」

 エリは部屋の中央に、直立不動の姿勢で立つ。彼女の視線の先には、高級感漂うデスクが。その向こう側に、椅子に座った男の背が見えた。逆光の中にいる男は、エリの声を聞くと、ゆっくりと椅子ごと振り向く。ナイフのような鋭い瞳がエリを見据える。刃物のような雰囲気を漂わせる銀髪の男。彼がこの部屋の主である。銀髪の男はエリに対し見下した笑みを浮かべると、デスクの上で両手を組んだ。

「君の任務は、エスタリア軍医療総合研究所の第五ケージに存在する、コードネーム

『α』の奪取だ」

 開口一番にそう言い放ったのは、蛇鈎リィド。エリの所属している陸軍特殊作戦部隊【夜烏】の室長。エリの上司に当たる人物だ。

 その名の通りに、蛇のように残忍で狡猾、そして執念深い男である。それゆえに組織というものとは相容れない気もするが、現実、彼は一部隊を治める長という立場にいる。その理由は、問題点を補って余りある才能のおかげだった。

 リィドは、部隊の指揮者として類まれなる才能を持っていた。他人を信用しない分、人をどう扱えば最適な結果を生み出せるかと言うことを、本能的に知っている人物だった。それゆえに、特殊部隊の中でも異能と呼ばれた【夜烏】の指揮者とするには最適だったのである。

 リィドは室長という名の椅子に相応しい、高圧的な態度で、言葉を続けた。

「これは諜報任務中のSILENT OF KING≠ゥら入手した情報なのだが、エスティア軍で大量殺戮兵器の開発が行われているということだ。眉唾の情報ではあるが、裏を取ったところ、ここ数ヶ月で大量の物資と傭兵達が、極秘裏にエスティア軍に移動している。物証といえる物証はこれだけなので、生憎と正規軍を動かせるほどの力は無い。だが、放置する危険性も否定できない。そこで私は、独断でこの件を解決することにした。そこで君の出番と言うわけだ。SWORD OF QUEEN=@君は医療総合研究所第五ケージに単独潜入。そこまでの足と、最低限の装備はこちらで用意する。研究所内部に侵入した後に『α』を奪取しろ。時間は一時間。それを過ぎれば、こちらからの回収は無い。以上だ。何か質問は?」

 矢継ぎ早に話した後、あっさりとその言葉を打ち切る。完全に自分のことしか考えていない喋り方だ。慣れているのか、エリは平然と質問をする。

「目標の『α』ですが、最終手段として目標の破壊は許可いただけますか。それと、私が選ばれた理由をお聞かせ願えますか」

「そのどちらも、却下だ」

 質問の意味など吹き飛ばす返答がくる。

「しかし、それではお前が納得しないだろうから、そのどちらにも答えることにしよう」

 わざわざ却下してからこんなことを言う。立場の違いというものを明確にするための演出だろう。過剰な気がするが、これがこの男である。

「二つの質問には同時に答えられる。目標の破壊は許可できない。『α』はエスティア軍の内部情報を知る重要な材料だからな。こちらで詳しく分析したい。本来なら情報を入手したSILENT OF KING≠ノ下すべき任務だが、生憎と上からの別任務が入った。だからこそ君を選んだのだよ。任務成功率100%という【夜烏】歴代最高と呼ばれるに相応しい君をね。困難だが、君ならばこの任務をやり遂げられるだろう。期待しているよ、朱鷺峰くん」

 口が耳まで裂けそうな満面の笑みを浮かべる。

 先の言葉は外見だけ良いが「任務を成功できなければ貴様に用は無い」という脅迫である。そういうことを平然と行えるのが、彼の彼たる所以である。

 だがエリも、そのことを十分に分かっていながらこう言う。

「了解しました。必ず任務を完遂致します」

 彼女も、十分過ぎるほど分かっていた。

 だが彼女にとって、ここでの居場所を無くすということは、死よりも耐え難いことであることを意味していた。

「頼んだぞ、SWORD OF QUEEN=v

 その言葉を背に受け、彼女は部屋を出た。

 

 

 エレベーターは停止することなく、地下へと降りていく。回数表示が十五階まで到達したとき、エリは指先を眉間に触れさせ、瞳を閉じた。一見考え込んでいるような動作だが、彼女にだけは別の意味があった。

 精神を集中させると彼女の頭の中に地図が浮かぶ。その地図は現在いる場所を二次元的に表示し、そこに存在する生物と無生物の位置を、正確に知ることができる能力。この力を【インサイド】と彼女は呼んでいる。指先を眉間に触れさせるのは、能力を発動させるキーになっているのだ。【インサイド】で見える地図は、赤と青と緑で構成されている。青色は建物の構造などの基本的部分。緑色は装飾品や調度品などの静物。赤色が生物になっている。各フロアには平均五人で警備についている。監視カメラの効果もあるのだろうが、エレベーターで堂々と進入しているとは思っていないのだろう。特に妨害も無く、エリは最深部へと進んでいく。

 彼女は目標である「α」があるであろう地下二十五階に、【インサイド】の視点を向かわせた。彼女の意識は、エレベーターより早く最深部へと到達する。

(…………?)

 エリは自分の見たものに、疑問を浮かべた。最下層はエレベーターから一直線の通路になっていて、百メートルほど先の部屋に繋がる単純な構造だった。もちろんその通路には十五人もの警備兵がいる。だが、その光点があまりに弱々しいのだ。光点の大きさは、生物の鼓動や呼吸にリンクしている。それが弱いということは、生命活動が水準より低下しているということ。まるで全員が睡眠下にあるようだ。そんな事態があるはずがない、と否定しながらもどこかでそれを認めている自分がいた。なぜなら【インサイド】で見えたものが間違いだったことはなかったから。

(……異常事態が起きたのか?)

 エリは【インサイド】を解除し、視点を現実に戻す。エレベーターの表示は地下二十三階になっていた。右手に【雷神】、左手に【風神】を持ち、扉の横に身を潜める。到着の呼び出し音が鳴り、ゆっくりと扉が開いた。

 扉の向こうは無音だった。エリはそっと【風神】を廊下に向け、刃に映った映像で様子を探る。【インサイド】で探った通り、扉からは直線の通路になっていた。そこには等間隔で並んだ兵士の姿がある。しかし、みな一様に床に倒れていた。

 エリは警戒を怠らないまま、一番近くにいた兵士に近寄る。触診してみるがやはり死んではいない。ただ眠っているだけだ。おそらく残りの兵士も同じなのだろう。だが全員が眠っている原因がわからないので、いつ目覚めるかも分からない。念のために始末していこうと思い、【風神】を首筋に近づける。

…………来たれ………………

 その声は唐突に聞こえた。いや、聞こえたのではない。頭の中に響いてきた。驚いたエリは、思わず立ち上がり周囲を覗った。しかし誰もいない。

(………何だ、今のは)

 エリは肉眼で感知できない範囲にいるのかと思い【インサイド】を発動させる。頭の中に、青い線で描かれた地下二十五階の映像が浮かぶ。その映像に変化が起きていた。先程まで緑のブロックしか存在しなかった小部屋の中に、赤い光点が存在していた。その光点に意識を集中させると、光点の点滅が止んだ。と思った瞬間、爆発的に赤い色が視界を埋め尽くし、青と緑の色を消し去った。

「……ッ、はぁッ……」

 一気に現実視点に戻されたエリは、肩で息をしていた。背中を冷たい汗が滑り落ちている。軽い頭痛がした。イメージが処理しきれなかったのだろう。こんなことは初めてだ。

 エリは頭を抑えつつ、ゆっくりと通路の向こうを見た。沈黙した兵士達が連なる道の向こうに、黒い扉がある。【インサイド】で見た小部屋がそこだ。

(…………あそこに「α」があるのか……)

 証拠は無かったが、核心があった。エリは唇を噛み締め、この場から立ち去りたいという気持ちを排除した。いつのまにか床に落としていた【雷神】と【風神】を手に取ると、鞘に収める。眠っている兵士達を通り過ぎて、扉の前に立つ。大げさなまでに分厚く見えるその扉は、押しても引いても動かない。加えてロックを解除する端末も見つからない。どうしたものかと思案していると、突如扉の右横にある壁が動いた。中にはロック機構が満載の端末が見える。それらの機器が勝手に作動している。電子音だけが鳴り響いた後、重々しい音と共に扉の鍵が開いた。そして触れてもいないのに扉が開いていった。

(………何が起きている……)

 あきらかに不可解な出来事が目の前で起きている。まるでエリを扉の中へと招き入れたいかのようだ。彼女は自分に都合が良すぎることばかりが起きているので、少し不安を抱く。しかし、扉の向こうの闇には自らが求めるものがある。体を舐める得体の知れない圧迫感がそれを裏付ける。無意識に生唾を飲み込みつつ、エリは進んだ。

 真っ暗な闇が視界を埋める。廊下側からの照明は、部屋の中身までは届いていない。まるで外界を拒絶するかのような闇。エリは何も見えなかったが、皮膚がめくれるような感覚と重苦しい空気を受けた肉体が、ここにある何かを感じていた。

 今開いた扉のすぐ横に、照明のスイッチがある。エリは自らを落ち着かせるために深呼吸をする。それはこの場所で出会う何かの為に、覚悟を決めているようにも見えた。息をゆっくりと吐いた後に、エリはスイッチを入れた。

 

 

 照明に照らされた内部は、あまりにも異質だった。

 艶消しされた灰色の壁に上下左右を阻まれている。無機質で無味乾燥な空間。その光景は部屋というよりは檻である。そう、この空間はまさに檻だった。全てはこの部屋の中央に存在している物体を封じ込める為の檻として存在している空間なのだと理解した。

 それは空中に吊り上げられていた。人間らしきシルエットをしたそれは、黒い革のベルトで全身を拘束されている。人間らしきと表現したのは、それこそ肌の露出すらないほどに全身に黒革が巻きつき、中にあるものが何かすら判別不可能だったからだ。拘束された黒い物体は、体と足と手とを大型の手錠らしき物体があり、そこから延びた鎖が天井と壁に固定されて、物体を宙吊りにしている。

 エリは宙吊りの物体にじっと視線を這わせる。そして眉間に指先を這わせ【インサイド】を発動した。二次元化した視界の中で、眼前の黒い物体は赤い光点へと変化した。

(………生きている………)

 とてもそうは見えないが、目の前のこの物体はあきらかに生命活動をしていた。これが目標の「α」である可能性は高い。となると、これを運搬しなければならないということだ。この物体の正体が何かは分からないが、本音を言えばあまり近寄りたくはなかった。今も皮膚に感じる不快感と得体の知れない感覚が、エリを警戒させている。だが、それが許されないことくらいは理解していた。

 この部屋に入った時のように、彼女は大きく深呼吸をする。そして目の前にあるものの拘束を断ち切るべく【雷神】を引き抜こうとした。

…………待ちわびた…………

「…ッ………!?」

 唐突に、頭に声が響いてきた。その声が何だったのかと思う間もなく、出入口であった扉がひとりでに閉じていった。重々しい音と共に閉鎖される空間。そして濃密な何かが部屋に満ちていくのを、彼女は感じていた。

 ばづん、という激しい音と共に、黒い物体を吊っていた鎖が弾け飛ぶ。エリは【雷神】を構えつつ後退した。鎖が無くなり落下するかと思われたその物体は、何の支えも無いまま空中へと停止していた。

…………待ちわびたぞ………我が主たりえる者よ…………

 頭の中に声が響く。エリはようやく、その声が空中の黒い物体から発せられていることに気づいた。彼女は現在の状況を整理しようと必死に平静を保とうとするが、そんなことは黒い物体にとってはお構いなしだった。

 体を拘束していた黒のベルトが、まるで意思を持っているように広がった。展開したベルトの中から出てきたのは人間の体だった。蜘蛛の巣のように広がったベルトは、螺旋を描きながら元の場所に収束していく。戻っていくそれは、生まれでた人間の体を保護するように巻きついて、最終的に首元から足首までを追うコートへと変化した。

 最後に、顔を覆っていたベルトが弾けた。ベルトは誘導されるようにコートへと向かい、首、二の腕、手首へと巻きついた。革帯から解放されて真っ先にこぼれてきたのは、腰まで届くような長い金髪だった。その髪は今まで拘束されていたのが嘘のように滑らかで、透き通った色をしていた。

 そして、ようやく重力の束縛に従ったかのように、ゆっくりとその人間が降りてくる。音も無く床へと降り立つその仕草は、神々しさすら感じさせた。エリは内蔵が圧迫されるような威圧感を感じながら、それでも【雷神】を構えつづけた。その行為は、敗北を知りつつも勇敢に相手へと刃を向ける感覚に似ていた。

 黒いコートに包まれた左手がゆっくりと動き出す。それと同時にうつむかせていた顔を上げていく。左手が顔を覆っていた長い金髪をかきあげた時、エリは時間が止まったような錯覚を覚えた。

 長髪に隠されていた、揺れるように輝く紅い瞳が見える。素肌は陶磁器のように白く、しかし弱さを感じさせない。唇は濡れたような艶を伴い、芸術的なアルカイックスマイルを浮かべていた。外見は男性であるのに、そこには性差など超越したような根源的な美しさがあった。

 エリは熱病に犯されたような表情でその人物を見ていた。その瞳はぼんやりと光を失い【雷神】を持つ手に力が無くなっていく。無意識化で彼女の足は、引き寄せられるように前へと進んでいた。ゆっくりと【雷神】が右手を離れて床に落ちる。

 ぎぃん、という金属音。その音をきっかけにエリは自我を取り戻した。瞳は光を得て、理性が宿る。相手に隙を見せないように、ゆっくりと【雷神】を拾う。そして近づいていた距離を離していく。エリは油断した自らを戒めるように唇に犬歯をつきたてる。破れた唇から血がにじみ、一筋の赤い線となって落ちた。

(………いまのは一体……)

 あの紅い瞳を見た瞬間、彼女は自分が消し飛んだような感覚に襲われていた。意識を取り戻したのは、正直言って運が良かった。普通ならば、あのまま自己を崩壊させられていただろう。体中から汗が噴き出しているが、拭うような真似は出来ない。目の前にいる男から目を離せば、致命的なことになりかねない。根拠などないが彼女はそう思った。

 対面してから、時間にすればほんの30秒ほどしか立っていない。だがエリにとっては過去経験したどんな場面よりも長い時間を体感していた。ゆえに、その変化に気づくのも早かった。

 体に感じていた圧迫感が消えた。同時に、あの揺らめくような紅い瞳の輝きも収まっていた。男の顔には、先程までとは違う風のような微笑が浮かんでいた。

「さすがだな、私の瞳に耐えられるとは。やはり汝は相応しい存在のようだ」

 外見に劣らない美声で彼はそう言った。そして唐突に膝をつき、頭を垂れた。

「汝を試すようなことをした無礼を詫びよう。これより先、私が汝に危害を加えるような真似は一切行なわない。誓いを立てよう」

 エリは突きつけていた【雷神】を下ろし、鞘へ収めた。目の前の男を信用したわけではないが、先程までの威圧感は消えている。少なくとも危害を加えるつもりはないのだろう。今のところは。それに、彼にはこんなナイフ一本など何の意味も持たないと思えたからだ。

「聞きたいことがあるのだけれど、いい?」

 とりあえずは、この男が何者なのか、そして何を知っているのか。彼女はそれを聞き出すことが最優先だと思考した。おそらく拒みはしないだろうという目算は、すぐに彼の言葉によって否定される。

「悪いが、そんな暇は無いだろう。だから先に私の用件を済まさせてもらえるか?」

「………」

 エリは自分の認識の甘さを知った。頭から否定されて二の句が告げられずに黙っていると、ケイオスは足音を響かせながら彼女へと歩み寄った。そして再び肩膝をつき、深く頭を垂れる。

「白銀の光の如し力と意思を兼ね備えし剣の女神よ。我、ケイオスの名の下にこの意思を、この力を、この命を、全て捧げることを、ここに『契約』したい」

 呪文のような言葉がケイオスの唇から軽やかに紡がれる。

 エリはその言葉に意味するところを、ゆっくりと、確実に理解して、そして質問する。

「……ええと、つまりは私の部下になる、ということなのか?」

「部下とはまだ扱いが丁重過ぎるだろう。僕(しもべ)で構わないのだが。ん、だが執事というのも捨てがたいか」

「……なぜそういうことになるんだ? 全く理解できないのだが」

 ケイオスは困惑しているエリに、優しく諭すように言った。

「簡単なことだ。仕えるべきマスター≠捜し求め、そのマスターに尽くすことが私の存在意義だからだ」

「……そのマスターに選ばれたのが私だということか?」

「その通りだ。これは誇りに思うべきことだぞ。私が選ぶのは、その時間軸において最も優秀である人間なのだからな」

「…………私は別に嬉しくないのだが……」

 エリは「何故だ?」とでも言いたげなケイオスの表情を見ながら、少し考えた。

「仮に、私がここでお前と『契約』を交わせば、君は私の命令を聞くのか?」

「無論だ。ただ、私の自由意志も多少なり配慮してくれるとありがたいが」

「………断った場合は?」

「その場合は仕方ない。私は別のマスターを捜すだろう」

 彼女は揺れる。任務遂行を考えるならば、ケイオスと契約することが必要条件だ。しかしこの契約は、メリットよりデメリットの方が格段に高まる予感がする。何よりエリは、制御できない力の恐ろしさを知っている。そう思う反面、エリはケイオスに親近感に似たものを感じていた。どこか心の奥底、中枢の部分でかすかに同じものを持っているような、不思議な感覚を。

 だが、彼女は曖昧な直感で物事を運べるほど子供ではない。覚悟の上で彼と契約を結ぼうとするが、ケイオスはその覚悟を揺さぶるようにこう言ってきた。

「一つ言い忘れたが、契約を結んだ場合、それが解除されるのは汝の『死亡』もしくは『精神の著しい崩壊』によってのみ行なわれる。私が死ぬことは在り得ないので、これは汝の生涯を左右する選択であるということを忘れないでもらいたい」

 まるでこちらを試すように、いや実際に試しているのだろう。ケイオスは悪びれた様子も見せず、ただじっとエリを見ている。一挙動を観察するように。

 彼女は答えを躊躇う。

 だが、その瞳の揺らぎはすぐに無くなった。

 エリは、自分が最も恐れることを思い出したからだ。彼女は、ゆっくりとこう告げる。

「わかった。君と『契約』を結ぼう」

 ケイオスは、その言葉を反芻するように瞳を閉じる。そのまま問う。

「二言は、無いな?」

 躊躇無く、エリは肯定する。

 それが嬉しかったのだろう。ケイオスは裏表の無い笑顔を浮かべた。

「感謝する」

 一言を告げると、彼は恭しくエリの手を取る。左手の手袋をそっと外すと、エリの掌に自分の指を這わせる。

「少し痛むが、傷はすぐに癒す」

 言葉どおり、ケイオスの指先を追うように、浅い裂傷が生まれていく。血が滲み出すその傷跡に、ケイオスは自分の唇を重ねた。彼の唇が、血と傷を舐めるのを感じたエリは、不意に胸の痛みを感じる。ケイオスが自分の手から唇を離すのと同時に、それは収まった。

 左手を見ると、幻であったかのように傷は消えている。

 ゆっくりと立ち上がったケイオスは、唇にすこし残ったエリの血を舐め取った。

「儀式は完了した。マスター、先程痛みのあった箇所を見てみてくれ」

 エリはスーツの襟元を開き、自分の素肌を見てみる。鎖骨の下あたりに白い羽と黒い羽が対になったような紋様が浮かんでいた。

 ケイオスも自分のコートの胸元を開く。ケイオスの体にも、同じ場所に紋様があった。

「それが我々の契約の証だ。それがある限り、我々の主従関係が覆ることは無い」

 エリは胸元の紋様に触れてみる。まるでそれは生まれたときからあったように、肌になじんでいた。

「契約は完了した、ということか」

「そういうことだ、マスター」

 エリはスーツの襟元を戻す。だとすれば、ここに長居する理由は無い。彼女の思考はこの研究所からの脱出を選択した。

 だが、そう上手くはいかなかったらしい。彼女の感覚は膨大な危険信号を感じ取った。視線が出入り口である扉へと向かう。扉の向こう側から、恐ろしいまでの悪意を感じた。

 即座に彼女は【インサイド】を発動する。扉の向こうである直線の通路に、無数の赤い光点が集合しているのが見えた。彼女は舌打ちして【インサイド】を解く。

「傭兵部隊か。数は三十前後。突破できる数ではないな」

「そうだろうな。すこし前からマスターの侵入は感知されていたようだし」

 軽い調子で言う。

「……まさか、知っていたのか?」

 頷くケイオス。

「だから私は自分の用件を先に済ませてもらったのだが」

「…………どうして教えなかった?」

「聞かれなかったからな」

 エリは頭痛を堪える。だがあきれている場合ではない。なんとか脱出しなければ犬死である。エリの頭脳はあらゆる可能性を模索する。

「この部屋に脱出路は無いのか?」

「出入り口はその扉だけだ。もともと私を閉じ込めるための檻だからな、ここは。壁は特殊生成された鉛と鉄の複合合金だ。電磁波を通さず、カノン砲の直撃にも耐えられる。破壊することは不可能だろう」

「……もう少し明るい材料が欲しいな」

 他の出口がないとすれば、残る選択肢は二つ。抵抗か降伏だ。しかしそのどちらも、生き残れる可能性は限りなく低い。エリは苦い顔をした。

 だがそんなエリに、ケイオスは不思議そうに言う。

「何を思い悩むのだ、マスター? 障害となるものがあれば、取り除けばよい。ただそれだけのことだろう」

「……なに?」

 顔を上げたエリの視線は、唯一の防壁である扉へと手をかけるケイオスが映る。彼はエリに振り向き、笑う。

「ここで待っていてくれ」

 それだけを言うと、ケイオスは扉を開けた。







次へ 戻る