柵の無効からそう呼びかけられて、女は驚いた。
この屋上には誰もいなかったはずなのに、平然と男はそこにいた。うすら寒いものを感じた彼女は、金切り声をあげる。
「来ないで! 近づいたら飛び降りるからっ!」
だが男は、その叫びを聞いても平然としてこういった。
「ああ、いいよ。死んでくれ」
「………え?」
女は唖然としてしまった。
「だから死んでくれって。俺はここで見物してるからさ」
「……あんた……なんなの?」
問いかけに男は肩をすくめる。
「別に。俺はただ人が死ぬのを見るのが好きなんだよ。な、だからちゃっちゃと飛び降りていいぜ」
完全に意表をつかれた女は、飛び降りるきっかけを失っていた。手すりにつかまったまま動けないでいた。
その様子に男が舌打ちする。
「なんだよ。覚悟が鈍ったのか。しょうがねぇな」
男はそういうとすたすたと女に近づいていく。
「ほら、俺が押してやるから、そのままでいろよ」
女がその言葉に疑問を抱く間もなく、男はゆっくりと右手を突き出した。
どん。
「……?」
女は一瞬思考を失う。
手すりから自分の手が離れて、空中に放り出される。
死。
その言葉が頭をよぎった瞬間、女の手は無意識に動いて、自分を突き飛ばした男の手を掴んでいた。
「はぁっ、はぁっ………」
男の手に引き上げられた女は、地面に膝をついて肩で息をしていた。
「ったく、根性無しが」
そんな様子の女に、男は深い溜息をつく。
「オイ、聞けよこの馬鹿。俺の手を掴んだってことはな、テメェは心底死にたいって思って無かったんだよ。死を選ぶ覚悟があるんならな、その覚悟で死ぬ気で生きてみろ。そのうえで死にたいんなら、ここに来い。俺が優しく殺してやるからよ」
「………」
沈黙する女に、再び男は溜息をつく。
「オイ、もうここに用はねぇだろ。さっさと帰れよ」
「………」
女はゆっくりと立ち上がる。
見上げた男の顔は、女を見下している。
女はその男の目を、力強く見返した。
そして通り過ぎる間際に、こう呟いた。
「…ありがとう」
女が消えて数十秒後。
男は疲労で首をぐるりと回した。
「ああ、ったくやってらんねぇ…」
いつのまにか、黒だった男の瞳が金色になっていた。
「いくら地獄が満員だからってよ、悪魔に人間が死ぬのを止めろってのはなんなんだよ」
ぼやいた男の耳に、声が聞こえる。
どこかのだれかの、死ぬという声。
男が苛立たしげに頭をかく。
「あーッ、この根性無しどもが!!」
男は背中から翼を生み出して、天空へと舞い上がった。
そんな悪魔の話。
いつの時代も下っ端や中間管理職は大変だという切実なお話ですね。