いつか、またここで



 俺はベンチに座って彼女を待っていた。

 背もたれに体を預けて、視線はゆっくりと目の前の光景を写している。

 はしゃぐ娘を肩車している父親。岩山を自由に駆け回る猿たち。瞳を輝かせて檻の中にいる獣の王を見つめている兄弟。巨大な体を揺らしながら歩く象。駆け寄る兎を嬉しそうに胸に抱いた母子。

 変わらない。ここから見えるものは二年前と変わらない。

 それが懐かしく、嬉しかった。

「お待たせ」

 聞きなれた声が耳に入り、左の頬に冷たい感触。俺は手を伸ばしてそれを受け取った。

「どうしたの? なんだかすごく幸せそうな顔してる」

 そう言いながら彼女は僕の隣に座る。手にしているのは僕の手にあるものと同じ、紙コップに注がれたコカコーラ。

「何も。ただぼーっとしてた」

 正確には思い出に浸っていたのだ。けれどもそれを言葉に出す必要は無い。きっと彼女も同じだと思うからだ。俺はストローに口をつけてコーラを飲む。

 コンビニで買うコーラとはどこか違う気がする。多分、ここの空気のせいだろう。

 彼女はそんな俺ににこりと微笑む。

「ぼーっとしてても楽しいもんね。ここは」

「前はそんなことも出来なかったからな。あの時は予定で頭がいっぱいだった」

 過去の自分を思い返してみる。あの時は「次に何をするか」「次はここに行く」という思考だけで頭がいっぱいで、目の前の事を楽しむことが出来なかった。いま思えば馬鹿なことだが、慣れないことをするときは、大抵そんなものだ。同じ場所にいっても、初めての時と二回目とでは感じる印象が違うのは、きっとそういうことだろう。

「わたしも初めて来たときは、ここの動物をあんまり見れなかったよ。だって、それより面白いものがあったし」

 俺がその言葉に疑問を抱いていると、彼女の指先が俺の顔を指す。

 成る程。二年前の俺を端から見ると、自分が思っていた以上に滑稽だったらしい。過去の自分を殴りたくなるというやり場の無い怒りに、俺は溜息をついた。

「まぁ…なんだ。そのぶん今日は思う存分癒されたんじゃないか? そう思うと今日一日がなんとなく二倍オトクな感じがするぞ」

「あはは、そういうことにしておいてあげます」

 照れ隠しの混じった意味不明な言葉を口にする。彼女の返答は言葉面こそ良いが、声は思い切り笑っていた。俺の顔は無意識に半笑いになる。否定できないのがつらいところだ。

「駄目なんだよな。一日を有意義に使いきろう、とか思ってしまうと深く考えすぎるんだよ。もっとアバウトな人間に生まれたかったぜ」

「普段はだらだらなのに、変なところで几帳面だよねぇ」

「我ながら難儀な性格だと思う」

 自虐的にそんなことを呟く。やはり今日のように無計画な方が俺の性に合うようだ。

 ふと意識した。

 こんな他愛の無い会話を、ひどく愛おしく思っている自分がいることを。

 これが一つの終焉を迎える人間の心境なのだろうか。俺には経験したことがないから分からない。でもその感覚は新鮮であり、同時に悲しかった。二度と感じたくないほどに。

 だがそう思っても願っても、現実というものは逃げてくれなかった。

 そう意識してしまうと、弾んでいた心が一気に沈む。その感情を押しのけるように、俺はコップの中身を一気に飲み干す。まだ強い炭酸が喉を刺激し、咳き込んでしまった。

 だが俺の奇行ともとれる行動に、彼女は何の反応も返してこなかった。普通なら、俺をからかう一言があるはずなのだが。俺は顔を上げて彼女を見た。

 その表情は、俺と同じように沈んでいた。

 俺は悔やみ、罵った。この時間に水を差すようなことをしてしまった自分を。彼女に対し謝罪の言葉をかけようとしたとき、目の前に彼女の指先が伸びてきて、俺の額を弾いた。

 不意を突かれた俺の頭は、痛みよりも驚きで埋め尽くされる。もう一度見た彼女の顔には、悪戯な笑みがあった。

「なに一人で暗くなってるの。まったくもう」

 その台詞を聞いて、俺はようやく先程の顔が演技だったと気づく。

「言ったでしょう。嫌なことは何も考えないで、今日は精一杯楽しむの。そう決めたんじゃなかったっけ」

「……ああ、悪かった」

 彼女が正しかった。全く馬鹿なことだ。そうしようと決めたのは俺自身だったのに。俺が苦い顔で頭を掻いていると、彼女はベンチから立ち上がる。

「ほら、そろそろ休憩はいいでしょ。今度はふれあいコーナーでも行ってみようよ。さっきは一杯で入れなかったしさ」

 そういってこちらに手を差し伸べる。俺はその手をしっかりと握って立ち上がる。

「そうだな。あ、ひとつ言っておくけど。いくら可愛いからってそのまま持ちかえるなよ」

「そんなことしないってば」

「他人の家の飼い犬を全力で持っていこうとした人間が言う言葉じゃないなぁ」

「あ、あれは……そう、若さゆえの過ちってやつだってば」

 どうでもいい会話をしながら、俺たちは手を繋いで進む。先程までの感情は消えうせていた。

 大丈夫だ。何も変わったりはしない。変わりはしない。

 隣にいる彼女も。そしてこの俺も。

 もし過ぎた時間が互いを変えても。この場所に立てば思い出せる。

 ここが二人のスタートラインなのだから。

 

 


友人に「動物園」をテーマに何か書け、と言われたので書いてみました。
実験的に、二通りの捉え方が出来るように書いてみました。
その時の気分によって、また違ったものが見えてくるのではないでしょうか。
でもこういう実験的作品は、応用に自己満足だったりするのですが。







戻る