珈琲



 

 

 指先がキーボードを叩く音だけが部屋に響く。

 画面に表示される文字列を追いながら、頭の中で続く言葉を考えていく。

 単純にいえばやっていることはそれだけである。けれどもその作業が、ひどく困難で難解であることは、体感したものにしか分からないだろう。

 私は打ち込んだ文字列を眺め、その出来具合に不満を抱き、文字を消す。もう一度文脈を変えてやってみるが、やはり納得はいかない。しばらくはその繰り返しが続いた。

 煮詰まった私はキーボードから手を離し、椅子の背もたれに体重を預けた。集中しすぎたせいか、目がしばしばする。私は目頭を手で揉み解して、視界の回復を待った。

 コン、コン、とノックの音が聞こえる。私は「どうぞ」と言葉をかけた。

 扉が開き、姿を見せたのは妻の秋子だ。左手に持った小さなトレイに、湯気をたてた珈琲カップが乗っている。

「お疲れ様。珈琲でもいかがですか?」

「ああ、頂くとしよう」

 私はそういった後で、デスクの右側に放置してある、数時間前の珈琲に気づいた。もうすっかり冷めた中身は、ほとんど手をつけていなかった。

「………」

 私はばつの悪い思いで、そのカップを渡す。妻はそれを受け取ると、しょうがないですね、といいたげに微笑んだ。そうして新しいカップを私に差し出した。

 鼻腔をくすぐる芳香を感じながら、私は珈琲を飲んだ。ミルクと砂糖は入れない。そのままの珈琲を楽しむのが私の主義だ。

 喉に染み入る暖かさが、疲労を僅かながら取り払ってくれる。

「相変わらず美味いな。君の珈琲は」

「どういたしまして」

 私の賛辞に、妻はわずかながら頬を染めた。その様子を微笑ましく思いながら、私は再び椅子を引き、仕事を続けようと思った。

 だが、どうにも首が重苦しい。私は首を左右にひねる。そうすると肩もなにか重苦しく思えてしまい、自分で肩を揉んだ。

「…大丈夫ですか?」

 妻が心配そうに声をかけてくる。

「職業病みたいなものだ。気にすることはないよ」

 私は笑顔を浮かべる。だが、それで重さが取れるわけでもない。

 そんな私の肩に、妻の手がそっと添えられる。彼女の両手に力がこめられ、硬くなった私の肩を揉みほぐしてくれた。

 妻の力は弱く、正直にいえば肩こりがほぐれるわけではない。だが、その心遣いが私には何より嬉しかった。

「……すまないな。君には苦労ばかりかける」

 最近はスランプ気味で、筆が進まないことが多い。昨日は苛立ちが頂点に達し、妻に当り散らしてしまった。それが一度や二度ではない。何も不満をもらさない妻に、私が甘えている証拠だ。私は自己嫌悪に眉根を歪ませた。

「いいんですよ」

 妻の声は優しく、一層私の心を打つ。

「……君だって私に不満があるだろう。言いたいことは言ってくれて構わないんだよ」

 全てを飲み込んでくれそうな彼女の心に溺れそうになりながらも、私はそう言う。妻への甘えを戒めるためでもあった。

 肩を揉んでいた妻の手が止まる。その手がそっと肩を離れて、私の肌に触れる。彼女の手が私の頬を暖かく包んだ。

「あなたの力になろうと決めたのは私です。だからあなたは、私を頼ってください。疲れたときは甘えてください。そうしてくれることが、私の望みです」

 妻が私を、そっと抱きしめる。

「あなたを愛しているから、私はここに居るのですよ」

 彼女の暖かさを身近に感じて、私は涙腺が緩みそうになる。その感情をそらすように、私は珈琲を飲む。先程よりも苦味を感じたのは、強いぬくもりが傍にあったせいだろう。

 私の背中で、妻はくすりと微笑む。

「そのかわり、私を一番の読者にしてくださいね。先生?」

 私は振り返って、妻の頭をそっと撫でる。

 そのささやかな願いで、彼女が喜んでくれるなら、そうしよう。

 私は妻の笑顔を前にそう思った。

 

 


コーヒーのお話。
物書きとコーヒーはセットでしかるべきと信じて疑わない僕です。








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