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 今日、私は目覚ましより早く起きた。

 ベッドの上で身を起こすと、温かい日差しを肌に感じた。母がカーテンを開けてくれたのだろう。

「あら、おはよう。今日はずいぶん早く起きたわね」

「だって、今日はひさしぶりに響に逢えるから」

 いつもより声が弾んでいる。きっと私の顔は微笑んでいるのだろう。母はそんな私の様子を見て、くすくすと笑う。

「本当に彼のことが好きなのね、奏は」

「うん」

 私があまりにもはっきりと断言したので、母は少し驚いたのだろう。数秒の間のあと、もう一度くすくすと笑った。

 

 

 服を着替えた私は、母に連れられ待ち合わせの場所に向かった。

 ひさしぶりに乗った母の車は、前と変わらない空気で私を迎えてくれた。母の車は古い型の軽自動車だ。とても愛着のある車らしく、私が子供の頃から買い換えていない。何度も修理に出して乗っているらしい。私は記憶と変わらないシートの感触が嬉しくて、ついつい笑みをこぼした。

車が走り出すと、少し空いた車の窓から外の空気が入り込んでくる。私は胸一杯にその空気を吸い込む。春の匂いが体に満ちていく。部屋の中で吸う空気とは比べ物にならない。私は嬉しくて何度も深呼吸をした。

「そうそう、響くん。県のコンクールで優勝したんだよ。よっぽど嬉しかったんだろうね。響くんのお母さんがご近所中に言い回ってたわ」

「当然だよ。だって私が師匠なんだもん」

 私は自分のことのように誇らしく思った。けど溜息も出た。

「あーあ。コンクールの演奏、聞きたかったなぁ」

 そう呟くと、母は同じように溜息をついて、私の頭をぽんと叩いた。

「何を言っているんだかこの子は。聞かせてもらえばいいじゃないの、今日」

「…………あ」

 思わず間の抜けた声を出してしまった。

 

 

 チャイムの音が鳴る。インターホンから聞こえてきた声は、とても懐かしかった。

「はい、神尾ですが」

「どうもこんにちは。綾里です」

「ああ、どうも。待ってました。いま開けますね」

 ひさしぶりに聞いた響の声に、私の胸は自然と高鳴っていた。いや、高鳴りなどという可愛いものではなく、心臓が弾けそうだった。別に激しい運動をしたからというわけではなく、純粋な嬉しさで。がちゃり、とドアノブが音を立てて扉が開いた。

「ひびきっ」

 私は扉から出てきた彼に声を上げて飛びついた。顔をうずめた彼の胸は大きくて暖かく、すこし膨れたお腹はなんだか気持ちよくて。

 そこで私は違和感を覚えた。それとほぼ同時に、抱きついた人物が口を開く。

「……いやぁ、奏ちゃん。おじさんは嬉しいんだけど、そういうのは響にしてやったほうがいいよ」

 その声は響のものではなく、彼の父親のものだった。

 どうやら私は、抱きつく相手を間違えてしまったらしい。

「……あ………その……うぅ」

 恥ずかしさで頬が赤くなる。顔から火がでそうだった。

 そんな私を見て、皆が一斉に笑った。

 

 

 私は響に手を引かれながら、彼の部屋に入った。

 ひさしぶりに入った彼の部屋で、大きく息を吸い込む。響の匂いがするこの部屋も変わっていなかった。

「はい、ここに座って」

 促された場所に私は腰を下ろす。響のベッドだった。この感触も変わらない。私はベッドに横になると、シーツに顔を埋める。そこに残る響の残り香を嗅いだ。それはすごく暖かくて、優しかった。

「奏ちゃん、何してるのさ」

「んー、響の匂いがする」

「……恥ずかしいから、止めてくれるかい」

 困ったように彼が言うので、私は素直に止めて体を起こした。すぐ傍でベッドのきしむ音が聞こえる。響が私の隣に座ったのだろう。

「ひさしぶりだよね、奏ちゃんがここに来るのも」

「うん、そうだね」

 私の隣に響がいる。それを肌に感じるだけで、私の心はとても安らぐ。逢えなくても心は傍に居る。そう思うけれど、やっぱり実際に逢えないのはとても寂しい。独りでベッドに眠っていると、不意に孤独を感じてしまう。わがままだとは知っているけれど、私はずっと響の傍にいたい。どうしようもなく、そう思う。

「前は毎日のようにここに―――」

 響の言葉が止まる。私が彼の肩にもたれかかったからだ。彼は何も言わず、私の肩をそっと抱いてくれた。響の手は子供をあやすように、優しく肩を撫でてくれている。

私は、とても幸せそうな顔をしているのだろう。実際、私はいまとても満たされていた。

 しばらくそうしていると、くすくすと彼が笑った。

「どうしたの」

「……いや、さっきの奏ちゃんを思い出してたんだよ」

 彼の言葉に思い当たった私は、また頬を赤くしてしまう。

「だって……インターホンで響の声が聞こえたから…ふつう出てくると思うじゃない。しょうがないの……もう、みんな響が悪いの」

 私が頬を膨らませているのを見て、響が笑って私の肩をぽんぽんと叩く。私の怒りは通じていないようだ。

「うー、だめだめ。さっきのは無し。やりなおし、やりなおーし」

 私は体を離すと、彼の胸に指を突きつける。

「はい、最初から」

 言葉の意味が判らなかったのだろう。響は何も言ってこなかった。

「もう…『いま開けますね』からだよ。やりなおし」

 ようやく私の意図を悟り、響は「ああ、そういうことか」と呟いた。そして一度咳払いをすると、あの場面をやり直した。

「ああ、どうも。待ってました。いま開けますね」

 私はあの時と同じ、嬉しさで一杯の笑顔をして。

「ひびきっ」

 彼に抱きついた。

 

 

「そうだ、そういえば……あ」

 響は話し込んで時の流れを忘れていた私は、重大なことを話し忘れていたことに気づいたのだ。

「響、コンクール優勝したんだよね、おめでとう」

 私がそう言うと、彼は照れ隠しのように笑った。

「僕の力、というよりは優秀な先生のおかげじゃないのかな」

「えへへ、そうかな」

 母にはああいう風に言ったけれど、実際のところ私が教えていることなんてほんのわずかなことだ。後は全部、響の実力だと思う。幼い頃からピアノを弾いていた私だけれど、コンクールに受かったことなんて一回もないのだから。

「ねぇ、響のピアノが聞きたいな。コンクールで演奏した曲」

「うん、いいよ」

 響はベッドから立ち上がり、ピアノを開いた。

 鍵盤がテンポよく三回、ドの音を鳴らす。音を確かめる響の癖だ。

「それじゃあ、始めるよ」

 私の小さな拍手で、観客が一人だけの演奏会が始まった。

 彼が弾き始めたのは、シューマンの「トロイメライ」

 響が始めて弾いた曲。

 そして私の大好きな曲。

 響の指先が奏でる旋律は、彼と同じでとても優しい。私の指は、無意識に膝の上で動いていた。頭の中にある鍵盤で彼と同じ曲を弾く。私は見えない鍵盤の音を響かせ、響とセッションをしていた。

 これが現実にできていたら、どんなに嬉しいことだろう。

 

 

 やがて響の指が最後の音を奏でて、演奏は終了した。

 私も自分の演奏を止めて、素晴らしい演奏を聞かせてくれた響に拍手をした。響は椅子から立ち上がると、再び私の隣に戻ってくる。

「どうだったかな」

「うん、綺麗な音だった。上手になったんだね」

 けれど私は、嬉しさを感じると共に寂しさも感じた。それは想像してはいけないことだったが、それでも頭から離れない。私は無意識に唇を噛んでいた。

「……ねぇ、もう一曲聞いてみてもらえるかい」

 響はそういうと、立ち上がって私の手を取る。私はそれに従い立ち上がる。そのまま手を引いて、彼は私の手を何かに触れさせた。久しく忘れていたその感触は、ピアノの鍵盤だ。響はそっと私の手を鍵盤から離すと、椅子の背もたれに導く。そうして自分は椅子へと座り、再びピアノを弾き始めた。

「………あ」

 流れてくる旋律に、私は言葉を失う。

 曲の端々は、完全に覚えていなかったのだろう。間違えている。けれども私にはわかった。

 これは、私が作った曲。いや、作りかけていた曲。

 覚えている限り、私が響の前でこの曲を弾いたのは一度きりだったはずなのに。

 胸にこみ上げてきた感情をもてあましてしまう。

「うろ覚えだから、間違っているだろ。どのあたりか教えてくれないかい」

 響は私の手を取り、鍵盤へと促す。私の指が再び鍵盤に触れる。その指を動かすのは、とても勇気のいることだった。私の手は葛藤で震えている。

 そんな私を励ますように、響の手が、私の手をそっと握ってくれる。手の甲からその暖かさが染み入り、震えが止まった。

 彼の優しさに後押しされて、私の指が鍵盤を押し込んだ。

 ドの音が、私の耳に大きく響く。そしてその音は、私の葛藤をすっと溶かしてくれた。

「えっと…響。もう一度弾いてみて」

「うん」

 響は私の言うとおり、もう一度あの曲を弾いてくれた。私はそれを聞きながら、うろ覚えの部分に差し掛かると、彼の変わりに弾いてあげた。私の指使いはたどたどしかったけれど、彼はしっかりと理解してくれた。

「ここは……こう」

 感覚だけで弾くのは難しいと思ったけれど、意外となんとかなるものだった。記憶をたよりに私は指先を動かす。それを響が聞き、弾きなおすという行為が続き、ゆっくりと私の曲は元の姿を取り戻していく。

 どれくらい経っただろうか。

 私の指が止まる。しばらくして響の指も。

曲が終わったのだ。

続きはもうない。作ることができなくなったからだ。

「……これで、終わり」

 私の声は、掠れていた。

 

 

「……ベッドに座るかい」

 私は首を横に振る。

「聞かせて、響」

 言葉のままに、響はピアノを弾き始めた。

 再び流れてきた旋律は、そのままだった。私の記憶に残っている曲。

 でも少しだけ違う。それはきっと私だけに感じる感覚だろう。

 この曲は、響の音で奏でられている。

 私の音では、ない。

「…………」

 おかしい。

 どうして私は、悔しがっているんだろう。

 そんな理由なんてないはずなのに。

「……弾きたいんだよね」

 私の胸中を読み取ったような、響の言葉。

 何も言えなかった。言い返す言葉が見つけられなかった。

 それは彼の言葉が真実だったからだ。

「……怖いんだよね」

 怖い。

 私は怖い。

 どうしようもなく怖い。

 椅子に置いた手が、かたかたと震えた。

「でも、奏ちゃんはどれかを必ず選ばなきゃならないんだよ」

「………」

 嫌、と言いたかった。

 けれどそれが無理だとも分かっていた。

 ぐちゃぐちゃの心が悲鳴を訴えて、泣き出しそうになったとき、響がすっと立ち上がる気配がした。

 何も言わずに、彼は私を抱きしめた。

「待っているから」

 耳元で囁く声が聞こえる。

「僕はここで待ってる。ずっと待ってるから」

 いままで数え切れないほどのものを聞いてきたけれど。

 こんなに嬉しい言葉を、私は知らなかった。

 

 

 響に返す言葉は、私の中に一つも見あたらなくて。

 私は泣くことしか出来なかった。

 

 


ピアノはいいですよね。心が安らぎます。

実はいろいろと実験的作品
結果はまぁ大丈夫かな、というところでした。







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