フロントガラスの向こうに満開の桜が咲いている。俺はドアを開けて車の外にでる。枝から離れた花びらがひらひらと目の前を踊った。
平日の昼間だが、気持ちのいい晴天。そして街の中でも少ない花見のスポットであるここには大勢の花見客がいた。俺はその人たちとすれ違いながら、ここからさらに上、山の頂上付近へと歩いていく。花見の定番ともいえるばか騒ぎの声や、駆け回る子供たちを見ると、自然となごやかな気分になってしまう。俺の口は勝手に微笑みを浮かべていた。
舗装された坂道をゆっくり登っていく。道の左右にはもちろん桜の木が植えてあり、なかなかにいい光景だ。道の下には家族づれや団体客が多かったが、こちらに歩いてくるとすれ違う人に男女二人連れのカップルがやけに多いことに気づく。線引きをしたわけでもないのに、下はファミリー、上はカップルとはっきり別れているようだ。一人で歩いている俺は正直、かなり浮いている。視線が痛いが、まぁ気にしないことにしよう。そう思い込む。
坂道を登りきると、小さなスペースを囲うようにベンチが設けてある。ここにも桜は咲いているが、あまり人がいない。不人気の理由は、ここまでくるのに結構な坂道を登ることと、自販機や売店もなく、トイレもない不便な箇所だからだろう。本当に桜を見るだけの人のスペースなのだ。こういう場所が必要かどうかはさておき、俺にとっての都合はいいと思う。奇異の視線にさらされずに済む。
俺は一番奥のベンチまで向かうと、腰を下ろす。日差しで温まったベンチの温度が心地よい。俺は一息つくと、転落防止用の柵から街を見下ろした。
ミニチュアサイズの街並みを見ながら、俺は既視感と共にここでの約束を思い返す。
「四年間……」
呆然と呟いたその言葉を、彼女は無言で受け止めていた。視線は外すことなく俺に向けられている。その視線には決意と拒絶と後悔と懺悔、そして悲痛。
「わたし…子供の頃からの夢だったの。そしてようやくそのチャンスが掴めそうなの。やるなら徹底的にやりたい。そのうえで駄目ならきっぱりと諦める。でも……生半可な気持ちで行ったら、きっと後悔することになる。これだけは絶対」
彼女の声にはいつもの力が無い。
「だから……」
そこから先の言葉は消えた。もうその先は言われなくても分かる。
だけど、俺は素直に納得できなかった。納得できるはずがない。
「待ち合わせ、しよう」
彼女が俺の言葉に顔を上げる。目の端には涙が浮かんでいた。
「四年後の今日、ここでもう一度、二人で」
「でも……」
「忘れてたらそれでいい。きっぱりと諦める。それで俺は納得できる」
彼女は何も言わない。ただその瞳だけは俺から外れない。
「俺だって半端な気持ちでいたわけじゃないから」
彼女が唇を噛み締める。せき止めていた涙が溢れた。一度こぼれた涙はもう止まらず、彼女は両手で顔を覆った。それでも嗚咽だけは堪えていた。
「…………ごめん……」
震える声でそれだけを告げる。
これ以上はもう何も言えなかった。
「また、な」
俺はそれだけを言い残し、彼女に背を向けた。
思い返すと、ひどく陳腐で青臭い約束だ。けれど仕方が無い。本気だったんだから。それ以外の選択肢はあのときの俺には無かったんだ。
しかし冷静に考えてみれば、四年も前の約束を片時も忘れずに覚えていた俺が笑える立場ではない。そう思うと思わず苦笑してしまう。
彼女は約束を覚えているのだろうか。いや、仮に覚えていたとしても、来るとは限らない。もしかしたら別の誰かが隣にいるのかもしれない。
それでも別にいい。いや、本当はよくない。
けれどどちらにせよ、四年越しの答えに決着がつく。それだけは確かな事だ。
強い風が吹いた。桜の枝が震えて花びらを撒き散らす。風圧に目が痛み、無意識に腕で顔を覆った。
風が止み、不意に訪れた静寂の中、一つの足音が聞こえた。
足音はゆっくりと、しかし確実にこちらへと近づいている。その足音はちょうどベンチに座る俺の真後ろで止まった。
立ち上がり、振り返ろうとして急に動きが止まる。どうしようもない不安と恐怖が身体を硬直させた。早鐘のように鳴る心臓と爆発しそうな意識に、俺は囁きかける。
大丈夫だ。落ち着け。ゆっくりでいい。ゆっくりと身体を動かせ。
その言葉に従い、俺の身体はゆっくりと動く。スローモーションのように動く視界が、風に揺れる黒髪を捉える。そして俺は完全に背後へと振り返る。
そこにあったのは、あの日と同じ光景。
あの時と同じだった。
場所も人も時間も同じ。
舞い散る桜も、頬を撫でる風も。
ただ一つだけ。
決定的に違うものが一つ。
満面の笑みを浮かべた彼女がそこにいた。
時期に合わせたお話を一つ。
春は出会いの季節であり、別れの季節でもあったり。
始まりであり終わりであり。
なんとなくそんなイメージです。
ところで僕は記憶力が残念な人なので、こんな四年前に何をしていたのかこれっぽっちも覚えていません。