プロローグ

 

 商店街のアーケードを、一人の若者が歩いていた。

 人の群れを泳ぐようにすいすいとすり抜けていく。目的もなく、ただ暇つぶしに来ただけといった感じで、その視線は左右に並ぶ店舗をぼーっと眺めていた。

 若者の足がふと止まる。何かが彼の耳に聞こえたのだ。

「うぅ……うぅ……」

 それは苦しんでいるような、助けを求めているような、そんな声だった。

 その声につられるように、彼はアーケードの中にある細い路地へと向かっていった。しばらく歩くと、その路地の突き当たりに店があった。

 『紅牢生肉店』と、看板には書かれてある。歴史のある店なのか、看板は少し色落ちしていて、しみのようなものがあった。真正面には、大きな冷蔵のガラスケースが置いてある。そこにはバラ肉、モモ肉、肩ロース、レバー、スペアリブなどなど、多様な肉が陳列されていた。中には見たこともないような肉も置いてある。そしてガラスケースの上に、なにやら小さな看板を持った人形が置いてあった。その看板には『営業中』と書かれていた。

 ケースの向こう側には誰もいない。普通は店主がそこに立っているものなのだが。

 そう思った瞬間、また声が聞こえた。

「うぅ……うぅ……」

 今度はすぐ近くだとわかった。店の近くに寄って辺りを見回してみると、電柱の影に黒いものを見つけた。

 それは座り込んでいる人だった。二十代くらいの若い女性である。顔の右半分を、長い黒髪が覆っている。顔立ちは整っているが、左目には不健康そうなクマができていて、病的に白い肌をしていた。それなのに、唇だけは紅を差したように赤い。身にまとっているのは、色気のないジーンズに長袖のシャツ。おまけにひまわりのアップリケが入ったエプロンをつけていた。

 彼女は苦しそうにおなかを押さえている。先程の声の主は、おそらくこの人物だろう。

「おい、大丈夫かよ」

 若者が声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げてこういった。

「うぅ……おなか空きました」

 若者はこけそうになった。

 再び顔を下げて「うぅ」とか「あぁ」とか言い続ける彼女に、若者は冷や汗を垂らしながら言った。

「ならメシ食べろよ」

 彼女は首を横にふった。

「お金がないのです」

「あんた、この店の人なんだろ。だったらちょっとつまみ食いすればいいんじゃないの」

 彼女は首を横にふった。

「駄目です。これは売り物ですから、私が食べてはいけないのです」

「わけわかんねぇし」

 若者はため息をついた。

 関わり合いにならないほうがいいか、と思い、若者が来た道を戻ろうとしたとき、彼は足をつかまれた。

 なにかと思い振り返ると、女性が若者の右足にしがみついていた。

「おねがいです……どうかお肉を恵んでいただけませんか?」

 上目遣いで懇願してくる彼女に対し、若者は嫌そうな顔をした。

「他のヤツに頼めよ」

「おねがいします〜、どうか〜」

 彼女は若者の足に身体を摺り寄せてお願いする。イライラした様子で彼女を睨んでいた若者の視線が、急にちらちらと泳ぐ。理由は明白だ。彼女が身体を摺り寄せるたびに、右足に彼女の胸が当たっていたからだ。

 若者の怠惰心が徐々に後退し、良心と親切心と下心がむくむくと進出してきた。

「……しかたねぇな」

 ぼりぼりと頭を掻く。表は面倒くさげな表情をしていたが、心の中では笑い顔を浮かべていた。

「ほら、食べさしてやるから立てよ」

 彼女に手を貸そうと、若者はすっと手を差し出した。それを見た彼女は、ぱぁっと明るい笑顔を浮かべた。

「はい、いただきます」

「は?」

 若者があっけにとられた瞬間、それは起きた。

 彼女の口が、差し出された若者の指に噛み付き、2本を噛み千切った。

「………」

 若者は呆然と自分の手を見ていた。人差し指と中指があったところから、噴水のように血が流れ出している。その指はどこにいった?

 彼女はもくもくと咀嚼している。唇の端から赤い物が伝う。何を食べている?

「う〜ん、肉つきがよくて美味しいです」

 満面の笑みを浮かべた彼女を見て、彼はようやく正気を取り戻した。

「う、うああああああっ! お、お、おまえ、なにしてんだよ! ゆ、ゆび、俺の指を!」

「んふ、もっとください」

 彼女がそう言って開いた口は、真っ赤な血と、肉片と、白い骨片に染まっていた。

 若者の理性は壊れた。

「ああうああああうううああああ!!」

 言葉にならない悲鳴を上げながら、彼は逃げた。

「あ、待ってくださいよぉ」

 彼女の静止など、むろん聞くはずも無い。若者は一目散に逃げていった。

「もぉ、ひどいなぁ。半端に食べたら、ますますお腹すいちゃいますよ」

 むくれた様子の彼女は、口の中から出した白いものを、不機嫌そうにぴこぴこと上下させる。

 それは若者の指の骨だった。

 

 

 

 

  一

 

 紅牢生肉店は繁盛していない。

 扱っている肉の種類は、ほかのどこにも負けないと自慢できるが、生憎と立地条件が悪い。アーケードのメイン通りからはひどく見えにくいところにあるのだ。

 というわけで、店主の紅牢ミサは、店頭のガラスケースの上に頬杖をついていた。

「あ〜、う〜、暇です〜」

 独り言を呟いてみるが、誰も反応するものはいない。

「あ〜、う〜、お客さん来てください〜」

 こんこん、と指先でガラスケースを叩く。

「あ〜、う〜、来てくれないと、お肉たべちゃいますよ〜」

 意味不明の論理をまくしたてる。

 しばらく彼女は延々と独り言を繰り返していた。

「あ〜、う〜……う?」

 彼女のぼやきが止まった。理由は簡単だ。待ちに待ったものがきたのだ。

 お客さんであった。

「こんにちは、ミサさん」

 にこやかに声をかけてきたのは、二十歳くらいの男である。どこにでもいそうな黒髪と黒目の、これといって特徴のない人物である。

 名前は笹葉透。この店の常連の一人である。

「こんにちわ〜トオルくん。今日は何を買いにきたのですか?」

「今日はしょうが焼きを作るらしいので、豚肉です」

「あ〜、いいタイミングです。昨日いい豚さんが入ったばかりなんですよ」

 ガラスケースを開いて、豚肉の塊を取り出す。すぐ後ろにある調理場に肉塊をどん、と置くと、どこからともなく包丁を取り出す。それはかなり使い込まれてる中華包丁だった。

「ほい」

 ドン。肉を大きく切り分ける。

「ほい」

 スパスパッ。余分な部分をカットする。

「ほい」

 ストトトト。スライスしていく。

 気楽な掛け声と共に、肉塊を驚異的な速さで切り刻んでいく。数秒後にはしょうが焼きサイズに切り分けられていた。それをパックにつめて、ラップ掛けをする。商品は、「紅牢生肉店」という店名と、デフォルメされた店主の顔が印刷された、特注のビニール袋に詰めた。

「出来上がりです〜、どうぞ。今日は一割増でお肉が増量中ですよ」

「いつもすみません」

 透はそれを受け取ると、入れ違いにお金を手渡す。ミサは電卓で計算してお釣りを渡した。

「それにしても、ミサさんの所のお肉は美味しいですよね。それに安いし。なにか秘密でもあるんですか?」

「ふふふ〜、それはキギョウヒミツというやつですよ」

 ちちち、と指をふるミサ。あはは、と透が笑った。

「それじゃ、また来ますね」

 透は小さく手を振って帰ろうとする。

「あ〜、待ってください」

 ミサは透を呼び止めると、ガラスケースの奥から、小さい肉の入ったパックを取り出した。表には『試作品』とシールが張られていた。

「? なんですか、これ」

 透はその肉を覗き込んでみる。見た事の無い肉だった。小さくカットされた紅い肉は、ホルモンに似ているようだったが、微妙に違う。スーパーなんかでも見たことは無い。

「実はまだ店には出していない、新作のお肉なんです。ヒミツの製法でつくられたヒミツのお肉なので、味見してみてください」

「いいんですか?」

「トオルくんにはいつもお世話になっていますので、特別です」

 ミサはにっこりと笑う。透は申し訳なさそうな表情をしながら、

「わかりました。いただきます」

 そういってそれを受け取った。

「あ、食べる時はしっかり焼いてくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 再度礼を言って、今度こそ透は帰っていった。

 

 

 

 

  二

 

 紅牢ミサは、笹葉透を見送ると、店の奥へと消えていった。

 その十分後。彼女は出てきた。先程までの格好とは一変していた。血を吸ったような紅いシャツと、黒い革パン。もともと赤い唇に口紅が塗られて、青白い肌がさらに白く見える。エプロン姿とは違い、お出かけといった格好である。彼女はガラスケースの上に乗っている人形を操作する。どういう原理になっているのか、頭をぽんと叩くと、プラカードの文字が変わった。「散歩中」とカードには書かれていた。

 

 彼女は軽い足どりで、鼻歌など歌いながら歩きはじめた。

「ん〜ふふ〜、ふふふふ〜〜♪」

 作詞作曲紅牢ミサの鼻歌を響かせながら、彼女はアーケードを抜けて、ビルの立ち並ぶ街を歩いていく。適当に右左に折れ曲がり、時々後戻りしながら歩いていく。目的地はまったく無いようだ。行き交う人と景色を瞳に収めながら、彼女は真昼の空の下にいた。

「ふふふん、ふふ〜ん〜〜……ふ?」

 鼻歌が止まった。ミサの瞳がある一点で止まっていた。

 その視線の先には、白と黒の二人の男が居た。

 白い男と見えたのは、筋肉質な身体を白いスーツで固めた男である。金色に染めた髪をオールバックにし、眼光が鷹のように鋭い。左目がひきつったように歪んでいるのはこめかみにあるヤケドの痕らしい。とにもかくにも人相の悪い男である。

 黒い男は、白い男の隣に、ボディーガードのように側にいる黒スーツの男だ。上背は白スーツのより頭一つ上であるが、やせた体格と長い手足が、男の印象をひょろりとしたものにしていた。顔立ちそのものはどこにでもいそうな男であるが、針先のように逆立てた髪と、鼻と耳を繋いでいるチェーンが、男に近寄りがたい雰囲気を与えている。

「ん〜ん〜♪」

 ミサは鼻歌を再開すると、男達の側を通り過ぎる。その時彼女の耳に、彼らの会話が聞こえてきた。

「三隅アニキは相変わらず真面目っすね。見舞いに行くくらいなら、俺が愛車で送っていきますよ」

 黒いスーツの男が、おどけた調子で言ってくる。三隅と呼ばれた白い男は、微苦笑を浮かべた。

「冗談は顔だけにしていてくれ、稔。お前の車になんか乗っていったら、病院中がパニックになる。そこいらの暴走族より派手な改造してるからな。いつも言ってるだろうが。堅気の人に迷惑はかけるんじゃねえよ」

「へっへっへ。わかってますって」

「どうだか……」

 ぴたり、とミサの足が止まった。ぐるりと体を反転させた彼女の視界が捕らえていたのは、黒いスーツの男、稔だった。

「んふふ〜」

 ミサがにこにこと笑った。ただしその微笑みは、先程までの無邪気な笑みとは違っている。たとえるなら、獲物を丸呑みする蛇のような、獣欲に満ちた、そんな顔だった。

 彼女はスキップするような軽い足取りで二人に近づいていった。

「すみませ〜ん」

 彼女の呼びかけに最初に気づいたのは、稔。いきなり声をかけてきたミサを不思議そうに見ている。次に三隅が振り返る。鋭い視線は射抜くようにミサを見ていた。

「誰だい、アンタ」

「はじめまして、紅牢ミサといいます」

 ぺこり、と彼女が頭を下げる。

「あ、そう。んで、なんか用?」

「はい。実はお願いがありまして…」

「なに?」

 単純な調子で稔が聞き返すと、ミサは少し顔を赤らめた。彼は意味がわからずに、そのまま待った。やがて、意を決したように、ミサが小さい声で言った。

「あの……私と気持ちいいことしませんか?」

「…………………………………はぁ?」

 たっぷり三秒ほど停止してから、稔はようやく一声を搾り出した。

(なに考えてんだこの女)

 稔は胸中でぼやいた。自分の体を売る女はさまざまいるが、ここまで間抜けというか馬鹿なやつは見たことがなかった。昼間っからトんでる女だな、と思う。思いながらも、とりあえず稔はミサの体を観察した。

 さっきの台詞が恥ずかしかったのか、両手をもじもじとさせながら、うつむき加減になっている。その胸元に稔の視線が行く。シャツの上からでも分かる豊かな胸で、視線が止まる。彼は巨乳好きだった。体つきは上々。顔も悪くない。性格状態がいまいちわからないが、そんなことは些細な問題だ。

 口元をゆがめる笑い方で、彼は後ろにいる三隅に振り返った。

「アニキ。こいつ、お見舞いの品にしていいっすかね?」

 言葉の意味は確かめるまでもない。女を差し出す、ということだ。慣れたことなのか、三隅は苦笑を返した。

「味見をしてから、か」

 三隅の言葉に、稔が「もちろんッスよ」と返した。

「ほどほどにしとけよ。俺は先に行ってる」

「はい、終わったらすぐ行きますよ」

 軽く手を振って、稔は三隅を送り出した。

「あのぉ……どうするんでしょうか?」

 それまで黙っていたミサがおずおずと話しかけてくる。稔は答えを返す代わりに、右手で彼女の顎をそっと上げさせ、いきなり唇を重ねた。彼女の唇を軽く舐めてやってから、体を離す。ぽーっとした顔のミサを見て、稔は楽しげに笑った。

「邪魔が入らないトコに、な」

 

 ビルの隙間の薄暗がりを抜けると、やや広い空間に出る。それは都市のエアポケットとでもいうべき空間で、周囲はビルの壁面だけ。空調のダクトや排出口から温風が吹いてくる。清掃業者や工事業者しか、好んで入り込まないような場所である。

 稔はミサを誘導してここまで連れて来ると、待ちかねたといわんばかりに、彼女の手を引き、自分の前の壁に押し付けた。ミサの顔は嫌がる様子もなく、とろんとした瞳で彼を見ていた。

「随分とスキモノだなぁ、お前」

 稔は下卑た笑いを貼り付けると、ミサの了解を得ることもなく、唇を奪う。かすかな抵抗なのか、彼女は口を閉じている。かまわずに稔はミサの唇に、歯に、歯茎に舌を這わせた。徐々に彼女の抵抗が緩んできたのを感じると、右手で軽く口を開かせてやり、ミサの口内に舌を突っ込む。

「んんっ」

 彼女は悲鳴というよりは、嬌声を上げた。口内を蹂躙する稔の舌に、ミサの舌が絡み付いてくるのに、そう長く時間はかからなかった。唾液と唾液が触れ合う音は、周囲から吹いてくる温風にかき消される。しかしミサの小さな喘ぎだけはしっかりと稔の耳に届いていた。しばらくキスを繰り返した後、稔は体を離した。唾液の糸がかすかに引いた。

「あ……」

 名残惜しそうなミサの声に、稔は自分の口をぺろりと舐めた。

「ンなもの欲しそうな声出すんじゃねえよ」

 そう吐くと、稔は彼女の胸を荒々しく掴む。

「あ、はあっ……」

 いちいち反応するミサに、稔は小さく笑い声を上げた。

「ちゃーんと可愛がってやるからよ」

 稔は赤いシャツの上から彼女の胸を愛撫する。壊れ物を扱うように優しく手を這わせていると、甘い声が聞こえてくる。いきなり握りつぶすように力を加える。

「ひっ、いっ、あああっ」

 びくんと体を震わせる。稔は笑みを浮かべ、再びミサの唇を奪う。待ちかねたかのように舌を絡めてくる。稔の手はその間も彼女の胸を嬲るように動く。その右手がかすかなものに触れる。シャツのものではない、かすかな突起。それを押しつぶす。ミサがひときわ大きな声を上げた。

 稔は唇を離さないまま、彼女のシャツのボタンを外していく。四つ目まで外したところで、彼は彼女の胸部を見た。赤いシャツがはだけて、見るからに白い肌をした胸があわらになる。下着をはずす必要は無かった。最初からつけていなかったのだ。

「ド淫乱だな、ホントに」

 息をあらげたミサが、頬を上気させた。かすかな羞恥心は残っているらしい。それが稔をより加虐的にさせた。

 残りのボタンを引きちぎって、彼女の上半身を露出させる。左胸を右手で鷲?みにし、指の跡が残るほどに力を込める。

「ひ、いぎっ」

 今度は悲鳴だった。しかし彼女の瞳は、愉悦を浮かべていた。右胸を口に含むと、乳首を噛んでやる。

「ひいぃっ……あ、ああっ、もっと」

 答えるように、右手は乳首を押しつぶした。

「ぎっ、ひっ、す…すごいです」

 痙攣するように体をびくつかせながら、ミサは確かな快楽を味わっていた。稔の右手が、彼女の下腹部にすっと滑り込んでいく。ショーツ越しに指が彼女の秘部に触れた。そこはじっとりと湿り気を帯びていた。探るように指を這わせ、そして指を突き進めた。

「うあっ、はっ、あはっ」

 立っていられないのか、足ががくがくと震える。口の端から、唾液がつぅっと零れた。なおも稔の指は動くことを止めない。ショーツの内側に手を差し入れ、体を内部から蹂躙するように、指を突き入れた。ミサの腰が跳ね上がった。

「も……もう、我慢っ、できま……せん」

 かすかな声に、稔は胸元から顔を上げた。その目には、だらしなく口を開いたミサの顔が映る。その舌先が、ちろちろと誘うように動いている。ミサの視線がこちらに注がれる。とろけきったその瞳に、かすかなものが浮かんでいたことに、稔は気づかなかった。彼が見逃したそれは、ミサの深奥にあるもう一つの欲望だった。

 たった一度。それを見逃したことが、木村崎稔の運命を決定付けた。

 

 ミサはゆっくりと顔を近づけると、彼の左目に唇を触れさせる。まぶたの上にキスをすると、稔は反射的にまぶたを開いた。

「あはっ」

 喜悦と共にミサは稔の眼球に舌を突き入れた。

「かひっ」

 予想だにしなかった行為に、喉が音程を無視した声を上げる。眼球を舌に愛撫される異様な感触に、体が意思を無視して痙攣する。ミサの左手が、稔の体をシャツ越しに撫でる。胸部から腹部へと、ゆっくりと指先が滑り落ちる。その指は、ちょうど臍の下あたりで止まった。ミサは指先で感じ取ったものに満足するかのように、舌先を眼窩に突き入れた。

「ぎっ、かっ、かひっ」

 唇を左目に密着させると、勢いよく吸い上げる。がくがくと震える稔の体を優しく抱く。喉の奥に何かが当たった感触を感じると、ミサは唇を離した。彼女の口の中には、稔の眼球があった。視神経がつながったままの眼球を、ミサはそっと右手に乗せた。

 稔の理性はすでに消えていた。

「やっぱり思ったとおりです。あなたはすごくいい内臓をしてますね」

 ミサの左目が快楽に歪む。動かない稔の代わりに、右手が自分の秘部をまさぐる。内部に指を二本突き入れる。淫靡な水音が、さらに彼女を高ぶらせる。ミサの左手は、シャツ越しの腹部に爪を突き立てた。

「もっとです。もっとよく見せてください」

 ミサの指先が、シャツを突き破った。皮膚を裂き、筋肉を掻き分け、裂けた肉から噴出した血が、彼女の手を汚した。彼女の左手が稔の体内を犯す。やがてミサの手が目的のものを見つける。弾力のある小腸に触れると、優しくそれを愛撫する。内臓を犯される感触に、稔の膝が痙攣を起こし、全身が人形のようにがくがくと揺れた。

「あはぁ……あははっ」

 快楽が背筋を駆け上るのを感じ、ミサは右手の眼球を口に含むと、歯をつきたてる。体液が噴出し、ねばついたものが口内に広がる。彼女はそれを咀嚼して、ナタデココのような触感を味わった。左手は小腸を離れて、血まみれになった腹部の傷跡を押し広げる。右手は鳩尾のあたりに突き立てられて、皮膚を裂く。みりみり、と聞こえるのは、人間の皮膚が引き裂かれる音だ。

「あははっ」

 一気に力を込めた彼女の両手は、筋肉と皮膚を引き裂いた。血液が噴水のように噴出し、彼女の体を真っ赤に染める。血に染まった瞳が捉えたのは、断末魔の蠢きを繰り替えす内臓と、それを保護する真っ白な肋骨だ。

「あははっ」

 稔の体を抱きしめると、温かな血液と痙攣を繰り返す肉体が、ミサを刺激する。残った彼の右目に吸い付くようにして、彼女は絶頂に達した。

 

 

 

 

  三

 

 その出来事の数分前。稔と別れた三隅は、市内にある病院の一室へとたどり着いていた。そこには、先月の抗争の際負傷した、三隅の部下が入院している。傷自体はたいしたことは無かったのだが、箇所が頭部だけに、大事をとらせたのだ。

 抗争、というのは文字通り、組織同士の戦争である。そして三隅誠一は、この街の暴力団の中でも一、二を争う組織、三笠組の組長である。いまどきめずらしい任侠を重んずる組でありながら、屈指の武闘派でもあるという、一昔前の銀幕のヤクザといった組織だ。

 彼らの目的はいたって単純である。街の治安維持である。ヤクザが治安維持とは矛盾するようだが、彼ら三笠組は、暴力団の中でも異質な存在なのだ。堅気の人間には手を出さず、薬物は厳禁。他の暴力団組織を潰しながら、縄張りを拡大していく。実際に、この街で三笠組に対抗しうる組織というと、齢八十を超えた藤林源次郎を筆頭にする古株・藤林組くらいである。

 警察機構でさえ、一目置く。そんな組織の中で、二十五歳という若輩者でありながら、組長を務めるのには理由がある。それは彼がここに来たことの意味でもある。

 革靴の足音が嫌に響くリノリウム張りの廊下を進む。彼のような存在は、病院では異質であろう。入院中の患者や、看護師たちがこぞって三隅を見ている。優しく笑い返す柄でもないし、自分の人相でそんなことをしても不気味がられるだけだ、と理解していた三隅は、その視線を受け流しながら、目的の病室へとたどり着いた。二回のノックの後、「どうぞ」という女の声が聞こえた。それに従い、三隅は中に入った。

「三隅さん」

 顔をほころばせて出迎えてくれたのは、平塚亜由美。ここに入院している鍵山連二の交際相手だ。彼女は鍵山の幼馴染で、結婚を前提に交際しているらしい。無論彼女は、三隅と連二がヤクザということを知っている。

「連二、起きなよ。三隅さんが来てくれてるのよ」

「おいおい、無理に起こすことはないぞ」

 三隅の静止はすこしだけ遅かった。うめき声とともに、連二が寝ぼけ眼を開いた。

「なんだよ……ったく……」

 目を擦りながら体を起こす連二と、三隅の目があった。瞬間、バネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。

「み、み、三隅の兄貴っ、こんなところまで! きょ、恐縮ですっ!」

「そんなにかしこまるな。俺も様子を見に着ただけだ」

 三隅がどんなにリラックスしろ、といっても、連二はしっかりと背筋を伸ばして、真面目な態度になる。とことん実直な男だ。そう思う三隅の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

「怪我はどうだ?」

「まったく問題ありませんっ。頑丈なのが取り柄ですのでっ!」

「精密検査の結果も、以上は無かったです。お医者さんも驚いてましたよ。『彼の頭には、骨の代わりに鉄が入っているのかい』って行ってました」

「確かに、その可能性はあるかもな」

 三隅がけらけらと笑う亜由美の言葉を茶化すと、連二は頭をぼりぼりと掻いて、「それはひどいっすよ」と苦笑した。

 三隅にとって部下とは、ただ手足のようにこき使える道具、というわけではない。彼にとって部下とは、同じ理想を夢見る親友であり、誰よりも信頼する同士である。自分はその仲間たちのリーダーのような存在にすぎない。そう彼は自覚している。

 だからこそ、部下が傷つけば率先して見舞いに行くのであり、いざとなれば、部下の盾となることもする。先立たれた親父、三笠組創始者・三隅重蔵の跡目として選ばれた三隅誠一は、そうやって組をまとめてきた。それが積み重なり、信頼を生み、やがて彼は自然と「若頭」とよばれるようになっていた。

 日陰者として生きていることを、三隅は後悔してはいない。この場所は、彼にとっての聖域であり、黒い感情と日々研鑽しあうこの現実で、ここだけは、三笠組だけは彼を裏切らなかったからだ。

 

「……ずいぶんと遅いですね、稔さん」

 ちらり、と腕時計をみた亜由美が言った。三隅も自分の時計を見る。稔と別れてから一時間近く。確かに遅すぎる。あいつは時間をかけて楽しむタイプではないから、もうこちらに来ていてもおかしくないのだが。

「少し席を外す」

 そういって立ち上がると、三隅は病室を出て、病院内の公衆電話へと向かった。携帯のメモリーを確認して、稔の携帯に連絡する。

『只今、電波の届かない場所にいるか、電源が入っておりません。恐れいりますが、もう一度おかけ直し下さい』

 機械的な女性の声を聞いて、三隅は電話を切った。その後、5分置きほどで稔の携帯を呼び出すが、一向に進展は無い。女性のアナウンスが虚しく繰り返されるだけだ。

 三隅の胸中に、隙間風のように不安が吹き込んできた。電話をかけるたびに大きくなっていったそれは、いまや無視できないまでになっていた。彼は煙草を取り出そうと胸元に手を伸ばすが、ここが病院だと気づくと、その手を引っ込めた。そんなことを忘れるくらいに、彼は動揺していた。

 落ち着かせるように大きく息を吸うと、三隅はもう一度受話器をとった。今度は違う番号に連絡を入れる。

「……真鍋か。俺だ、三隅だ。稔の所在がつかめない。すぐにいま動ける連中に連絡を入れろ」

 それだけを言うと、三隅は電話を切る。携帯をポケットにしまうと、三隅は病室に戻った。

 

 病室に戻った彼を出迎えたのは、同じく不安を抱えた表情の連二と亜由美だった。

「兄貴、どうだったんですか」

 連二が問いかける。三隅は、不安に染まった自分を振り払い、「若頭」としての毅然とした自分を作った。

「連絡がとれない。もしかしたら何かあったのかもしれない」

「……稔のヤツに限ってそんなことがあるんですか?」

 その点は三隅も気にはなっていた。稔は体つきこそ華奢に見えるが。三笠組の中でも最も頼りになる男である。こと暴力の場に関しては、彼の右に並ぶものはそうそういない。しかし、その稔をもってしても対処できない事態だとしたら。その可能性は否定できなかった。

「ともかく俺は稔を探す。すでに真鍋には連絡してある。組員中に連絡がいっているはずだ」

 それを聞くと、やおら連二は立ち上がる。

「俺も行きます!」

「ちょ、ちょっと連二?」

 亜由美の静止も耳に入っていないのか、ベッドから飛び降りる連二。しかし、眩暈を起こしたのか、足元をふらつかせる。亜由美がその体を支えた。三隅は手を差し伸べることなく、冷たく彼を見下ろした。

「今のお前は足手まといだ。黙ってここで休んでいろ」

「で、ですが……」

 なおも立ち上がろうとする連二の胸倉を、三隅が掴みあげた。彼の瞳は、氷のように冷徹な輝きを放っていた。

「忘れるな。杯を交わしたあの日から、お前は俺のものだ。お前の生死も、俺が決める。俺の許しなく行動することは許されない。分かったか? 分かったのならベッドに戻れ。それでも行こうとするなら、俺はお前を、もう部下とは認めん」

 矢継ぎ早に言い放つと、連二の体を離した。彼はなおも迷っているようだったが、すっと両腕を降ろした。

「……申し訳ありません」

 うつむいたまま連二はベッドに戻る。三隅に背を向けて、頭から布団をかぶった。愚かな自分を閉じ込めるかのように。それを見届けると、三隅はきびすを返して病室の扉に手をかけた。去る瞬間、彼はこう言い残した。

「お前は必要だ。必要不可欠だからこそ、俺はお前をここに留める」

 それだけを言うと、三隅は病室のドアを閉めた。部屋が連二と亜由美の二人になったとき、かすかな声が聞こえた。それは、布団を被っていた連二がもらした嗚咽だった。亜由美は小さく微笑むと、かすかに震えるその背中を優しく撫でた。

 

 革靴の音を響かせ、三隅は病院の廊下を歩く。その表情に、先程の毅然とした様子は無く、焦燥しきったものが張り付いていた。無意識に急ぎ足になり、病院の正面入口を出ると、すぐにタクシーを拾う。

「綾瀬市民会館付近へ。急いでくれ」

 運転手はその言葉に従い、病院の敷地内を出ると、公道を疾走し始めた。

 

 

 

 

  四

 

 三隅は心をざわつかせたまま、タクシーの座席から外を見ていた。表情だけは平静を装っていたが、内心はおだやではない。彼にとって三笠組に属する人間は、家族も同然である。彼らが傷つくことは、自分が傷つくことよりも、深く、身を抉る痛みとなる。まもなく、稔と別れたあたりだと思ったとき、彼の目に人垣が見えた。

「ここで止めてくれ。釣りはいらない」

 三隅はドアが開くや否や、運転手に万札を手渡して飛び出した。反対車線に出来ている人だかりは、ビルの隙間に群がっていた。三隅は横断歩道を横切ると、人垣に突っ込んでいった。聞こえてくる罵声を無視して、先頭に立つ。そこには制服警官が二人、は入り口を仕切ったテープの前に立ちはだかっていた。

「ここからは、一般の方の立ち入りを禁じています。お引取りください」

 事務的な口調の警官に、三隅は詰問する。

「何があったんです?」

「殺人事件です。現場の保存のため、立ち入りを禁じています」

「……被害者は?」

 一瞬言葉に詰まった喉をむりやり開いて、言葉を紡ぐ。

「捜査に関する事柄は、お教えできません」

 三隅は苦い唾を飲み込んだ。否定したい。否定したいが、それでは何も進まない。認めたくないが、それでは答えは出ない。しばしの沈黙の後に、三隅は顔を上げ、かすれた声で聞いた。

「……被害者は二十五くらいで、黒いスーツを着て、鼻と左耳をチェーンピアスで繋いだ男ですか?」

 一瞬だったが、三隅は見逃さなかった。警官の顔に動揺が浮かんだのを。その理由は、きくまでもないことだった。三隅は、涙腺があふれるのを必死に自制すると、ぎっと奥歯を噛んだ。

 三隅は唐突にしゃがみこみ、封鎖ロープを抜けると、一気に制服警官を追い越した。静止の声が聞こえるが、三隅は止まる気配など無い。疾走する三隅に向かって、制服警官の手が伸びてくるが、それを振り払いながら、三隅は駆ける。やがて視界の先に、スーツ姿の刑事と思われる二人が見えた。一人は線の細い、いかにも新人といった印象の男。もう一人は見るからに叩き上げといった感じの、頑健な男であった。

 三隅は足を止めた。その二人を見たためではない。男たちの先にいたのが、彼が探していたものだからだ。その男はビルの壁に背を預けて、地面に腰を下ろしていた。見間違えるはずも無い。先程まで一緒にいた三隅の付き人、木村崎稔である。

 しかし、それはもうすでに『木村崎 稔』という人間ではなかった。

 仕立てのいい白いシャツが引き裂かれて、真紅に染まっている。そこから除く肌も同様だ。鎖骨付近から臍部分まで、体の皮膚と筋肉が、引き裂くように剥がされていた。そこから除くのは、白い背骨と、背中部分の筋肉組織である。本来そこにあるべき内蔵は、この肉体に存在しなかった。そこはからっぽであり、肺も、心臓も、胃も、肝臓も、脾臓も、腎臓も、膵臓も、小腸も、大腸も、すべてが抜き取られていた。守るべきはずのものを失った肋骨が、寂しそうに存在している。

 ゆっくりと三隅の視線が上がった。

 不意に彼の脳裏に、木村崎稔の記憶が蘇る。いつもにやけた顔、人懐こい笑みを浮かべる顔、相手を恫喝する顔。浮かんでは消えていく。だが、現在の稔が、その顔を浮かべることはできない。彼の顔は、真っ赤に染まっていた。額についた傷から流れた血が、顔を真っ赤に染めている。錯覚したのはそのせいだ。血に染まっていたと思っていた両目は、もう無くなっていた。あるのは、眼球があった形跡を残す、空ろな空洞だ。額には一本線を引いたような傷がある。そこから上は無かった。額から上は、髪の毛と頭蓋骨を含めて、きれいに両断されていた。それを持ち出すために、頭を裂いたのだろうか。木村崎稔という人物を統括する脳は、きれいさっぱり無くなっていた。

 三隅誠一の時間は、完全に止まった。ここには、もう木村崎稔という人物は存在していない。ここにあるのは、もうただの肉塊である。彼が動くことは、もう完全無欠に否定されていた。

 だから、警官隊が追いついて三隅の体を羽交い絞めにしたときも、彼は一切抵抗しなかった。指一本動かす意志すら残っていなかった。

 誰かが近づいてくるのを感じる。何かを話しかけている。しかし、三隅には何も聞こえない。ただ、呆然として、無意識に、口だけが開いた。

「………………………………………みのる………」

 

 その場にいた人間のうち、真っ先に、その言葉の意味することを察したのは、三隅が頑健な刑事と称した方の男、南草一だった。彼は、見るからに呆然としている三隅の方を掴んで揺さぶった。

「なぁ、あんた。被害者のことを何か知ってるのか?」

 がくがくと揺さぶられるうち、三隅の目に、ようやく意思の光が戻った。弛緩していた表情が徐々に引き締まり、病室内で見せた厳格な「若頭」の表情になっていく。彼はゆっくりと顔を上げると、自分を取り押さえている制服警官達に向かって、落ち着いた調子で喋る。

「………警察の皆さん、取り乱して申し訳ありません。もう大丈夫です。私を止めてくださってありがとうございました」

 先程とは正反対の態度に、警官たちもどうしていいか迷う。力こそ緩めているものの、完全に離すことのできないままにいると、草一が警官達に指示を出す。

「離してやってくれ。この人は興奮してただけらしい」

 草一の言葉に、ようやく警官達が三隅から離れた。開放された三隅は、乱れた服を正すと、草一に向かって頭を下げた。

「大変失礼いたしました。身内が被害にあったのかと察して、我を忘れてしまいました」

 草一は胸ポケットから煙草を一本取り出すと、それを加える。

「いや、それは当然のことがから構いやしない。それより……」

 草一は胸ポケットから警察手帳を取り出し、三隅に提示する。

「綾瀬署の南だ。少し話を聞かせてもらえるか」

 三隅は頷いた。草一は視線で、後ろに控えていた男に合図を送る。草一の支持を受けて手帳を開いたのは、新人刑事と評された男、紺野聖人だった。

「それで、この被害者はあんたの……」

「はい。名前は木村崎稔。私の部下でした」

 三隅の視線がゆっくりと稔へと向かう。胸の痛みをこらえるべく、彼は奥歯をかみ締める。草一は、三隅の言葉にふとした疑念を抱く。

「部下? あんた、さっき被害者を身内、と言っていたが……」

「ああ、申し訳御座いません。私にとって、部下は身内同然なものですから」

「成る程。それであんた……。あー、すまない。名前を聞かせてもらってもいいか」

 最初に聞くべきことを失念していた草一は、頬をかきながら言った。

「私は、三隅誠一と申します」

「三隅……ね。 ……………みすみ?」

 草一の顔がはっ、とする。後ろで記帳していた聖人も、それに気づいた。

「………三笠組の組長さんか」

 ぼそり、と呟いた草一の言葉に、周囲の警官達も動揺を隠せない。警察に属す者で、三笠組を知らないものなど居ない。

「ええ、そのとおりです」

 三隅があっさりと肯定する。

 警察と三笠組は微妙な関係にある。警察としては、三笠組が暴力団として存在している以上、相容れぬ存在である。しかし、彼らの掲げている目標と行動は、基本的に警察と同じなのである。現に、三笠組が台頭してきてから、犯罪件数は極端に減った。同じ暴力団すらも彼らを警戒し、行動を控える傾向にある。しかし警察の面子上、手を取り合うわけにもいかない。全くもって微妙である。

その内心を見透かすかのように、三隅は言ってきた。

「すみません、刑事さん。ひとつだけ要望があるのですが」

「………何だ?」

 草一は苦渋を浮かべて、煙草に火をつけた。ややあって、三隅が突きつけてきた要求は、全く持って予想外なものだった。

「この木村崎稔の事件なんですが、捜査をしないでいただきたいのです」

「なっ……!?」

 真っ先に反応を返したのは、後ろに控えていた紺野聖人だった。

「そんなことができるわけがないでしょう。非常識すぎますよ」

 激昂する聖人とは対照的に、三隅はあくまで冷静だった。

「無礼も非常識も承知しております。しかし、冷静に考えてみてください。私達は一般人ではありません。ヤクザです。とはいえ私達は、自分の信念の下に、この町のために全力を尽くしています。あなたがた警察と同じですよ」

一緒にするな、という聖人の視線がぶつかってくるが、三隅は意に介しない。

「しかし、どれだけ高貴な理想を掲げていようと、しょせんは常識の枠を外れた人間たちです。自分たちの知らぬところで、殺したいほどの恨みを買うこともあるでしょう。それは認めます。そして認めるということは、同時に、死を肯定するということです」

 三隅は、木村崎稔だったものを指差す。

「私は、彼の死を必然たるものと考えます。だからこそ、あなた方の手を煩わせる必要はありません。どうかお願い致します。この木村崎稔を、私達に預けていただけませんか」

 三隅はすべてを言い終えると、深く頭を下げた。聖人は苦渋の面をつくると、いらだたしげに頭を掻いた。対照的に草一は、くわえた煙草の紫煙をくゆらせながら、沈黙していた。

「何を……! 南警部、なんとか言ってやってください。こんな理屈がまかり通るはずが………」

 草一は、あくまで緩慢に煙草を吸い、ゆっくり煙を吐き出した。そして、聖人にとってはあまりにも予想外のことを喋った。

「分かった」

「………………………………………………………は?」

 聖人は開いた口が塞がらなかった。

「といっても、死体を運び出すのは、さすがにあんたたちじゃまずいだろ。五分後に救急車が来るように手配する。そして病院まで搬送して、その後、あんたたちに遺体を引き渡す。綾瀬市中央病院で、三笠組の誰かを待機させといてくれ」

「ありがとうございます」

 三隅は、もう一度頭を下げた。

「んじゃ、俺達は撤収するぞ。あ、組長さん。ここへの入り口を見張っている警官だけは残すようにしておくから」

「重ね重ね、申し訳ありません」

 頭をさげたままの三隅に、草一はひらひらと手を振った。警官隊を引き連れてこの場を去っていく草一に、ようやく聖人は気がついた。

「ま、待ってくださいよ、草一さん」

 聖人はあわてて後を追った。

 

「どういうことなんですかっ!」

 聖人は鼻息荒く草一に詰め寄る。彼にしてみれば、全くもって憤慨すべき事態である。簡単に死体を引き渡したうえに、あげく捜査もせずに帰ろうとする警部に、聖人は動揺を通り越して猛っていた。しかし当の本人、南草一は怒り狂う聖人とは対照的に、冷め切っていた。

「どうもこうも、あの場はああするのが一番妥当な判断だよ」

「妥当? 妥当ですって!? 一般人に死体を引き渡すことのどこが妥当なんですか! そんな警官があっていいんですか! だいたいなんであの男の言うことをほいほいと聞いたんです? あの男はヤクザでしょう。警察官である我々が、あいつの言うことを聞かなければならない理由なんて、これっぽっちも存在しません!」

 もう聖人は目の前が見えていなかった。怒りの捌け口を求めるように、矢継ぎ早に言葉をぶつける。草一は足を止めると、聖人の顔めがけて、ふっと煙を吐いた。煙草の苦手な聖人は思い切りむせる。

「頭を冷やして、俺の質問に答えてみろ。お前はあいつの目を見て、何を感じた?」

「………目? 目がどうしたっていうんです?」

 草一は本気で理解できない、という聖人の顔に、疲れた溜息をついた。

「分からなかったんなら教えてやる。あいつ、俺達が要求を飲まなかったら、あの場にいた全員叩き殺してでも、遺体を取り返すって目をしてやがったんだよ」

「…………………………そんな、まさか」

「まさな、なんて言葉が通用するか。相手は三笠組の組長を務める男だぞ」

 草一の言葉に、聖人は押し黙った。

「三笠組は正義の味方じゃあないがな、この町の味方なのは確かだ。現に、綾瀬町の犯罪件数は、年々減少してるよ。なぜだと思う? 最も恐ろしくて凶暴なやつらが、この町を守っているかだ。やつらがいるからこそ、この町で犯罪を犯すってことが、どれだけハイリスクか、ってのが悪党どもには分かってる。警察よかよっぽど抑止力があるぜ。なにせヤツらには、俺達みたいながんじがらめのルールが無いし、強固な信念がある」

 草一は短くなった煙草を、携帯灰皿に押し込む。

「そんな三笠組に、真っ向から喧嘩を売ったんだ。この事件の犯人は。組の面子もなにもかもが丸つぶれだよ。自分たちでとっ捕まえて嬲り殺しにしたいと思うのが当然だろ。それは奴等の権利だよ」

「……………」

「分かったんなら手を出すな。あいつらに関わって、いいことなんざ一つも無い。あくまで独立して共闘するのが、一番この町の平和に貢献することになるよ」

 聖人は沈黙していた。納得したわけではない。でも、草一の言葉は、一概に否定できないものもある。だが、自分が納得できない。

「……………南警部は、それでいいんですか?」

「それ、ってのは何だ」

「警察官としての誇りは、警部には無いんですか?」

 聖人の真摯な言葉に、草一の表情が変化した。それを見た聖人の背筋が凍った。浮かんだそれは嘲笑だった。自分だけではなく、世界の全てを嘲るような、そんな笑い顔だった。

「捨てたよ、そんなもん」

 草一の視線が聖人を捕らえる。初めて見る彼の狂気に触れ、聖人は動けなかった。

「警察官の誇りなんてもので、何を守れるんだか、教えてくれるか?」

 完全に動きを止めた聖人を尻目に、一連の無駄ない動作で煙草を取り出すと、火をつけて、草一は彼を置いて歩きだした。

 

 一人その場に残された三隅は、木村崎稔だったものの隣に座った。背中をコンクリートにあずける。いつだったか、こんなふうに二人でビルを背に座っていたことがあった。そのときと違うのは、稔はもう喋ることも、笑顔を見せることも、ここから立ち上がることも、永遠にない。たったそれだけの違いだった。三隅は頭を両手でかきむしった。オールバックにした髪が崩れて、ばさりと前髪が落ちる。頭髪が視界をぼんやりと閉ざすのを見て、両手は降りた。

 三隅は、背後のコンクリート壁に頭をぶつける。ごつ、と頭蓋骨の中に音が響く。

 ごつ。

 ごつ。

 ごつ。

 次第に頭を打ち付ける勢いが増していく。

 ごつん。

 ごつん。

 ごつん。

 頭が重くなる。鈍い痛みを訴えていた頭が、鋭い痛みを訴えてきた。三隅は立ち上がると、今度は真正面から、額をコンクリートに打ちつけ始めた。

 がつん。

 がつん。

 がつん。

 もはや痛みは消えていた。打ち付けている額が、麻酔がかかったようにぼんやりして、何も感じない。代わりに頭蓋骨に響く音が大きくなったようでうるさかった。

 がづっ。

 がづっ。

 がづっ。

 ぶつっ、と何かが切れたような音が聞こえた。生暖かいものが額から、鼻筋を抜けて落ちる。額が切れたらしい。流れ出る血とともに、血液以外の何かが三隅の中からも抜け落ちていた。壁を見据えていたその瞳から、徐々に何かが消えていく。それは三隅を今の三隅たらしめていたもの。

 三笠組という組織。

 若頭としての立場。

 三隅誠一という理性のタガ。

 そんなものだった。

 変わりに、抜け落ちたものを埋めるように、浸透していくもの。それは彼がとうの昔に置き去りにしたもの。三隅の瞳から光が徐々に消え去り、やがては光を拒絶する漆黒となることが意味するもの。彼に宿ったのは、狂気だった。

 

 

 

 

  五

 

 三笠組のオフィスは、綾瀬市仁井町二丁目、閑静な住宅街の中に存在する。そこはあまりに異質だった。洋風の建物が並ぶ中に、広大な敷地を持つ純和風の邸宅。ただでさえ異様なその建物に、本日はさらに近寄りがたい空気が漂っていた。普通の人間にさえ感じ取れるほど明確化したそれは、ここに存在する百名近い人間が発する、殺気と怒気の入り混じった、負の空気だった。

 

 三隅邸の一室、会合室と呼ばれているその部屋に、三笠組の構成員が勢ぞろいしていた。三隅から木村崎稔の事件を聞かされた構成員たちは、怒り狂っていた。いま現在、組員たちのボルテージは最高潮に達している。仲間殺しを許せる人間など、この世に存在しないだろう。ましてや黙っていられる人間など、ここには存在しない。今にも飛び出しそうなものを、幹部連中が必死で取り押さえている。なぜ部下たちを動かせないのか。答えは只ひとつ。いまだ、若頭の口からは何も言葉が無いからだ。

三隅は、右腕である真鍋に仔細な報告を任せ、それ意外は何もせず上座に座り、どこを見るでもなく這わせた視線のまま、黙していた。整えていない髪とうつむいた顔で、表情を覆い隠している。その三隅の様子がいつもと違うことに、組員たちも気づいていた。それは単に髪型の違いなどではなく、本質的な何かが変わっているということだった。

「三隅組長」

 隣に控えていた真鍋が、小さく声をかけてくる。フレームの細い眼鏡と、目に少しかかるくらいの、くせのない黒髪。おおよそヤクザらしくない風貌の彼が、三笠組の頭脳と呼ばれている、真鍋智之であった。

「状況の報告は終了しました。あとは組長の判断で、いつでも行動できます」

 彼の言葉は常にシンプルだ。そのことが、今の三隅には心地よい。額にかかった前髪を払いのける。その瞳は、いつもの三隅誠一のものではない。相手を射すくめる鷹の瞳ではなく、見るだけで相手を両断するような刃物。硬質の瞳がそこにはあった。

「……全員、聞け」

 囁き声ほどの言葉が、場の空気を凍りつかせた。喧騒は止み、痛いくらいの静寂が支配する。そんな空気をものともせずに、三隅は切り出す。

「お前らは一切動くな。稔の事に関して、調べることも一切許さん。以上だ」

 三隅と真鍋以外の全員に、動揺が走る。ざわめきは、やがて一人の男を動かす。

「若頭。何故です? どうして俺達に稔の……稔の仇を討たせてくれないんです?」

 無礼を承知で意見をしたのは、相庭幸助。木村崎稔の同期で、親友でもある男だった。三隅はその言葉を平然と受ける。微動だにせず、顎で真鍋を促した。それを受けて、真鍋が答えを返す。

「三笠組が発足してから現在まで、組が復讐のために動いたことは一度もありません。組員が負傷・及び死亡した際にもです。もちろん警察もこのことを認識しております。私怨に左右されず、この町のために動く組織。だからこそ、警察も三笠組をある意味で黙認しています。今、三笠組が動くのは、さまざまな面でリスクを伴います」

 相庭は押し黙る。真鍋の言うことはもっともである。だが、到底納得など出来ない。出来るはずもない。

「ですが、しかし………!!」

「相庭」

 食い下がる相庭を、三隅の一言が制した。刃を伴った瞳が、相庭を射抜く。三隅が前髪をかきあげた。彼の右目から一筋、涙が流れ落ちた。

「……これ以上、俺を悲しませるな」

 場が静止した。

「俺は三笠組に存在する全員に誓った。お前らの命を預かると。だからこそ、この場にいる者の中で誰より、稔の死を悼み、憤り、殺した人間を憎んでいる。稔を殺した人間を、同じように、臓物を引きずり出して、脳味噌を掻き出して、眼球をくり抜いてやりたいと思っている。それだけじゃ飽き足らない。両手両足の指を切り落として手首足首を切り落として間接を切り落として肩を切り落として両太腿を切り落として達磨にしてやる。切り落とした手足は溶解するまで煮込んでやる。それから五分刻みで股関節から首筋までを切り落とし、そうして残った頭を踏み潰す。肉片と骨片になるまで踏み潰す」

 すでに涙は無かった。代わりに、怨嗟のごとく紡がれる言葉には、しっかりと含まれていた。三隅誠一が押さえ込んでいた本性が、徐々に姿を明確にしてきた。

「それを成すのは俺だ。俺一人で十分だ。俺以外の人間がいると、巻き込んで殺さない自信は無い。昔の俺を知っている人間なら、分かるだろう?」

 そういって立ち上がった三隅は、床の間に供えてあった刀を手に取る。一振りの刀が、そこに納まるべきものとして認識され、涼やかな唾鳴りを響かせた。

 藤原伊衛門作 朝露払 あさつゆはらい

 三隅誠一と共に、幾人もの血と屍を築き上げた、彼の狂気の象徴。

 それを持ち出したということが、全てを物語っていた。三隅は、稔を殺害した相手を殺しに行く。より残虐でより非道でより外道な殺し方で。

 もはや三隅を止めるものは誰もいなかった。誰もが会合室を出て行く若頭を見守る。彼の姿が消えようとした瞬間、真鍋が言葉をかけた。

「後は、お任せを」

 振り返りはしなかったが、三隅はかるく手を上げて、真鍋に答えた。

 

 

 三隅が、紅牢ミサの居所を突き止めるのは、わずかな出費ですんだ。この街を裏の裏まで知るものなら、誰もが一度は出会う情報屋を経営しているその男に、三隅はいつもどおりの報酬を支払った。殺害時刻の前後に、現場を出入りした人間は、只一人。後はそいつの個人情報を転送してもらうだけだった。

 商店街のアーケードを、三隅が歩く。布を巻きつけた朝露払≠ニ、刃の眼光を携えた三隅に、何人から驚いて振り返るが、半数が目をそらして通り過ぎる。トラブルに巻き込まれないコツは、不要な人と関わりを持たないことだ。そういった暗黙の了解に、三隅は薄く笑う。安心したのだ。

(もし興味本位で後をつけてくるような馬鹿がいるなら、殺してやらなければならないところだった)

 そんな答えが一瞬で導き出されるほど、彼の思考は犯されていた。熱病患者のような虚ろな眼差しで、彼は人気のない細い路地を進む。路地の突き当たり、ようやく目的の場所が、彼の前に姿を現した。

『紅牢生肉店』と、看板には書かれてある。しみのついた看板。その跡は見るものが見れば一瞬で分かる。血痕だ。店舗の真正面のガラスケースに展示されている、多様な肉。その中には、決して動物のものではない肉もあった。牛や豚では決して無い内蔵もある。その答えは簡単だ。これを求めるために、この女は人間を殺すのだ。ケースの上には、紅牢ミサをデフォルメした人形が置いてある。人形の手に握られた看板には『食事中』と書かれている。

 三隅は朝露払≠封印していた布切れを捨て去る。黒塗り漆製の鞘が鈍く輝く。左手の親指で刀の鯉口をわずかに開ける。ちき、と唾鳴りが響く。ケースの横をすり抜けると、建物の中へと入る扉があった。その扉には、無数の血痕がある。扉の下にはかすかな隙間があり、そこから赤黒い液体が外へと染み出している。胸糞の悪くなる匂いが鼻を刺激する。三隅には嗅ぎ慣れた匂い。血臭。呼び覚ました狂気を、さらに増幅してくれるその香りに頭蓋が犯されるのを感じ、三隅は唾を吐き捨てながら扉を蹴破った。

 

 鼻腔を犯す香り。それは馴染みがありすぎて気づかない。肉も内臓も排泄物も全てを混ぜ合わせた匂い。人間という物体の匂い。視界広がるのは、赤赤赤。染料でも塗料でもない、血液で塗りつぶされた真っ赤な壁。

 右の壁。手入れの行き届いた道具。わずかづつ形状が違う中華包丁。長さと太さの違う鉄パイプ。大小さまざまなノコギリ。手のひらサイズから工事用までそろえたハンマー。それらが整頓され、陳列されている。

 左の壁。布切れのようにぶら下がった人間の皮膚。内臓を綺麗に取り出して、干物にしている人肉。塩漬けにされた内蔵。無造作に手術台のようなテーブルに乗った、処理途中の死体。その下には、白骨、無数の髪の毛、切り捨てられた肉片、潰れた眼球、崩れかけた脳の破片らしきもの、無残に赤く染まった布切れ。元は人間という物体だったものの、断片。

 真正面。左右の壁に挟まれた通路の奥。左側。食事用と思われる小さなテーブルと椅子。皿の上には半分ほど食された心臓。ナイフで切り分けられた心臓に、フォークが突き刺さっている。ワイングラスに注がれているのは、粘り気のある血液。右側。この場には相応しくない、細かい細工の入った枠組の二人用寝台。脱ぎ捨てられた衣服。真っ赤に染め上げられたシーツ。その上に存在する、この空間にいる生きた人間。返り血で体を濡らした、裸体の女。なにかを胸元に抱くようにして、浅い呼吸を繰り返して睡魔に身を委ねる。この悪夢も生温い空間を作り上げた主、紅牢ミサ。

 

 三隅は、自分の心が凍りつくのを感じていた。いつもそうだ。感情が高ぶったときほど、彼の心は反して冷静さを増す。この精神構造が、このときは嬉しかった。これで感情に流されることなく、この女を解体できる。

 三隅は右の壁にかけてあった鉄パイプの一つを手に取る。それを放り投げ、鉄パイプが空中にある間に朝露払≠抜き放つ。きん、と鋭い音が聞こえたかと思うと、三隅はすでに刀を鞘に納めていた。そして落下してきた鉄パイプを掴む。パイプの先端が、かん、と落下した。三隅が空中で両断したのだ。先端を尖らせたパイプを持って、三隅はゆっくりとミサへと近づいていく。

「ん……うぅん……」

 響いた金属音で、ミサが目を覚ました。目を擦りながら、ゆっくりと体を起こす。乱れた髪と血まみれの肢体が、妖しく映る。寝ぼけ眼が開いて、三隅の姿を捉えた。

「あれ……あなたは―――」

 言葉は最後まで続かなかった。三隅は鉄色をした瞳のまま、鉄パイプの先端をミサに振り下ろす。ぐちゅ、と靴裏で鼠を踏み潰すような音と共に、鉄パイプがミサの腹部を、貫くというよりは抉っていった。そのまま彼女の体は、昆虫標本のようにベッドに縫い付けられる。

「ふぁっ! ……あぁぁ…熱いぃ……」

 ミサの顔に浮かんだのは、痛みによる苦悶ではなく、快感による恍惚だった。痛みという概念を知らないかのように、ミサは鍵裂き状に抉られた傷口から染み出す血を、自分の体に塗りたくる。三十六度の赤い液体が、彼女の体をさらに赤く染め上げる。

 三隅はそんな常軌を逸した行動にも、無感動だった。

「答えてもらおう。俺の部下を、木村崎稔を殺したのはお前だな」

 緩く反り返った朝露払≠フ刀身が、ミサの喉元に突きつけられた。絶命的な状況でも、彼女はいつもどおりだった。

「へぇ、あのひとミノルさんって言うんですね。そうですよぉ。私がミノルさんの内臓を掻き出して脳を持っていったんですよ。持ってきたものはみんなシチューにしてぇ、煮込んでぇ、食べちゃいました。んふっ、とっても美味しかったですよ。とくに脳味噌がとろけるように甘くって、もうやみつきになりそうでした」

 三隅の脳は、その言葉を情報とだけ認識する。理解はしない。あくまで冷静に冷徹に、目的だけを遂行しなければならない。そう判断していた。

「あ、そうそう。そこにあるのは、ミノルさんのですよぉ」

 ミサが指差したのは、テーブルの上に乗っているもの。皿の上に乗った心臓。紅く染まった、人間の鼓動をつかさどる器官。

 カチ、という音が三隅にだけ聞こえた。スイッチが入った。そういうことだった。

 三隅はミサの両手両足の指を切り落とした。

「あふぅっ」

 突然の刺激に、ミサが震えた。指先から噴出す血液が、赤いシーツをさらに紅く染める。

 次に三隅は両手首と両足首を切り落とした。

「あっあっあっ……はぁっ」

 肘関節と膝関節を切り落とす。

「ひあぁぁっ」

 肩から腕を切り落とす。

「ひぎいっ!」

 両太腿を切り落とす。

「んんんっ」

 芋虫のようにうごめくミサの姿を見て、三隅は彼女を縫いとめていた鉄パイプを引き抜く。

「ああっ……んっ…いやぁ……抜かないでぇ……」

 快楽交じりの彼女の声に答えたのか、三隅は再度鉄パイプを突き刺した。今度は腹部ではなく、洪水のごとく愛液を流していた膣内へ。

「あぎぃぃぃっ!! ひっ、ひあぁぁぁぁ」

 鋭利な鉄パイプに貫かれ、傷つけられ、血を流しながらも、彼女は鉄塊を咥えた。彼女の悲鳴など無視し、抉るように突き刺す。さんざん膣内を蹂躙して、ようやく鉄パイプが止まる。子宮口に触れたのだ。

「はあっ……はっ…はっ…」

 彼女の目はすでに白目を向きかけていた。虚ろな瞳は何も捕らえていない。だが顔だけは違った。致死量に近い血液を流しながら、両手両足を切り落とされてなお、彼女は愉悦を浮かべていた。断末魔の痙攣のごとく体を震わせているのは、死する前兆ではない。まぎれもない快楽を感じているのだ。異常、という言葉でも足りないほど、異常だった。

 冷徹な表情をした三隅の顔に、かすかな亀裂が入る。だがそれを無視して、三隅は朝露払≠再度握り直す。

「あ……んあ…あはっ。あははっ。もっと、もっとくださいぃ」

 紅い口唇から唾液を滴らせながら、ミサが哀願する。その言葉を耳から耳へと流して、三隅は鉄パイプが空けた風穴に、刀身を突きこんだ。

「あはぁぁぁっ、ああっ、あはははぁ!」

 笑っていた。三隅の刀が、皮膚と筋肉を裂いていき、内臓を削り取りながら、柔らかな胸部を蹂躙し、喉元へと達したところで、刀を引き抜かれて、血液と内臓が滲み出す姿にされても、彼女は笑っていた。悦楽を声に滲ませて、血飛沫と愛液を撒き散らしながら、臓器を上下動させながら、笑っていた。それは禍々しく、毒々しく、狂おしい微笑み。見たものを底無しの漆黒に引き込む顔。

 三隅は心の片隅に感じた。それはとっくの昔に忘れたはずのもの。自分で無くしたはずのもの。もう浮かぶことのないはずだったもの。

 ほんの小さな、恐怖。

「あはぁあはははっあははっあははぁっあははあははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 三隅はそれを振り払うように刀を振り払う。

 斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。

 刃の先にあるのは、数々の臓器。

 心臓を斬る。肺を斬る。胃袋を斬る。肝臓を斬る。膵臓を斬る。脾臓を斬る。腎臓を斬る。小腸を斬る。大腸を斬る。

 血液が飛び散り、刻まれた肉片が飛び散り、徐々に彼女の体が軽くなっていく。

「あははははははははははっあははははははははははっあははははははははははっあははははははははははっあははははははははははっあははははははははははっ」

 笑っていた。真っ赤な血を吐き出しながら。すでに肺は跡形も無く、呼吸をすべき機関は存在しない。顎の下まで刃で刻まれている。物理的にもはや喋ることは出来ない。いや、生きていることすら出来ない。

 それでも笑っていた。

 途切れることなく笑っていた。

 いつのまにか、切り落としたはずの両手両足が、元に戻っていた。斬り続けている内臓も、いつのまか戻り始めている。まるで映像の巻き戻しを見ているように。

 三隅は理解を放棄し、そして絶叫した。

 さらに刃は加速する。すでに三隅の持つ刀も、三隅の体も真っ赤に染まっている。切れ味はもはや存在しないその刀は、それでも彼女の肉体を抉り取っている。

 恐怖を打ち払うように。

 恐怖を消し去るように。

 恐怖を塗りつぶすように。

 

 荒い息遣いが聞こえる。それは自分のものだと気づいたとき、三隅はもはや立っていることもできなかった。崩れ落ちるように手近の椅子へと腰を下ろした。白いスーツは返り血で彩られて、白と赤の迷彩をつくっている。べったりと塗れた髪を、掻きあげようとするが、血がニカワのようにはりついて、指が通らない。その手にすでに刀は無い。朝露払≠ヘ、刀身に血糊を張りつかせながら、寝台の上に突き立っている。その刃先には、眉間から脳までを刀に貫かれている紅牢ミサの体があった。

 額から刀を生やしながら、大の字に寝転がっている。ある意味滑稽とも言える姿である。それは死に対する冒涜のようであるが、この場合は当てはまらない。紅牢ミサは、ゆっくりと、まるで何事もないように起き上がってきたからだ。その肉体には、三隅が先程刻んだ傷は、一切残っていない。切り落とした両手両足も、切り刻んだ皮膚も筋肉も、抉り取った内臓も、全てが元に戻っていた。その肌には血の跡すらなく、眩しいほどに白い肌を見せていた。

 ずひゅ、と背筋が冷たくなるような音と共に、ミサは頭を貫いている刀を引き抜いた。自らの体液と血液と肉汁にまみれた刀身に、舌を這わせる。危うい熱を帯びたミサの瞳は、虚空へと彷徨う。鋭い刃がときおり彼女の舌を傷つけるが、彼女にとっては快感でしかなく、びくりと体を震わせるだけだ。こびりついた液体を全て舐めとったミサは、刀身を振るい、自らの唾液を振り払った。刃金の輝きが元に戻る。

 にこっとミサが笑う。それはこれまでの禍々しさは一切無く、純真無垢な笑み。

「すごかったですよぉ。こんなに激しかったのは初めてです」

 頬をうっすらと染める。まるで初夜を過ごした少女のように。

 三隅の瞳はもはや酸化していた。輝きを失った鉄色が映し出しているのは、目の前にいるこの女に対する、底無しの恐怖。絶対的なその感情の中、三隅はもう悟っていた。自分にこの女は殺せないことを。

 何故なら、この女は不死身だ。

 理由、理屈、そんなものは消し飛ぶ。納得せざるを得ない。逆に問いたい。全身を細切れにされて生きていられる人間が、この世に存在するのかどうかを。

「お前は……何なんだ?」

 三隅の、すでに枯れ果てた喉が言葉を紡ぐ。その問いに、ミサはあっけらかんとして答えた。

「私はわたしですよ。紅牢ミサ。それ以外になにかありますか?」

「何故死なない? お前は人間なのか?」

 ミサは「あははっ」と笑う。全身を膾にされていたときに聞いた、あの笑い声で。三隅はその声を聞くだけで衰弱しそうだった。

「人間ですよ。あなたと同じニンゲンです。ちょっと変わってるだけですよ。体の傷がすぐ治ったり、人の肉意外は食べられないことを除けばですけどね」

「………それは人間とは呼ばない。バケモノだ」

「バケモノですか……貴方の感覚ではそうかもしれませんよね。でも、考えてみてください」

 彼女は微笑を崩さない。

「たとえば、生まれつき右手が無い人が義手をつけました。つまり体の一部が人工物です。彼は人間ですか?」

「人間だよ」

「たとえば、生まれつき左手の手首から先が、右手になっている人がいます。彼女は人間ですか?」

「人間だよ」

「たとえば、生まれつき野菜以外のものを食べられない人がいます。彼は人間ですか?」

「人間だよ」

「たとえば、生まれつき相手の考えていることが、分かる人がいます。彼女は人間ですか?」

「人間だよ」

「でしたら、生まれつき傷がすぐ治って、人間の肉以外食べられないわたしの、どこが人間じゃないんです?」

「………」

 三隅は言葉を失う。かすれるように反論する。

「殺人を好んで犯すようなお前に、人間を名乗る資格は無い」

「好きでやっているわけじゃないんですよ。生きるためです」

 ミサはまるで彼を諭すように続ける。

「あなたたちだって、自分たちが生きるために、他の動物を家畜と称して育てているじゃないですか。最終的には殺して、食うためにです。人間が生きるために食料を殺すのは必然でしょう? わたしにとって食料とは、人間でしかないんですから」

「………」

「わたしは、神様でもないし、聖人でもありませんから、他人を殺さないように、自分が望んで死ぬことなんてできません。誰にだって生きる権利はあるでしょう? ですからわたしは殺してきたんですよ。生きるためにね。……まぁちょっぴり趣味に走って惨殺してしまうときもありましたが」

 ぺろっと舌先を出すミサ。その唇も舌も、紅い。

「でも、わたしが食べるのは必要最低限です。一人を食べれば一週間は大丈夫ですから、月四食です。それ以外は無駄に食べたりはしませんよ。あなたたちのように、グルメではありませんから。少なくとも増えている人口よりは消費量が少ないんです。むしろ、増えるぎる人間を効果的に消費しているとは思えませんか?」

「………」

「まぁ、わたしのような人間がいても、いいじゃないですか」

 それまで黙っていた三隅が、かすかに動いた。口元がゆがんで、笑みを形作る。

「……………一つ見つけたよ。お前が人間じゃない証拠を」

「何ですか?」

 彼はゆっくりと、死刑宣告を告げる裁判官のごとく、口を開いた。

「死なないことだ」

 三隅は錆びた眼光をミサに向ける。

「人間は死があるから、生きる。死にあらがって生きて、そして死する事によって、その生涯を全うする生物だ。永遠に生き続けるお前は、別の生き物だ。死から開放されたお前は、人間じゃないんだよ」

 言葉を受けたミサの瞳が、三隅と交じる。ミサの顔から笑顔が消える。瞳に映った感情が、喜悦でも愉悦でも快楽でもないことに、三隅は疑問を覚える。彼女の瞳に映るのは、深い悲しみだった。

「どうして、みんなわたしを否定するんでしょうね……わたしは、ただ普通に生きていたいだけなのに」

 ミサの顔がうつむく。肩が小さく震えていた。その姿は、まるで子供のようで、包み込みたくなるような哀愁に満ちていた。

 その様子に、三隅は深く溜息をついた。

「芝居は止めろ」

 ミサの顔がすっと上がる。

「あははっ、ばれちゃいましたか。やっぱり演技は苦手です」

 先程の態度はどこへやら、といった様子で、ミサは笑った。

「わたしは構いませんよ。理解できない人は、理解しなくてもいいです。わたしは、わたし。いままで通りに生きるだけですよ。人間であろうが、なかろうが、わたしは今の生活を気に入ってますしね。生きることは自由でしょう?」

「………ああ」

 三隅は初めてこの女を肯定した。肉体的に殺すことが出来ないなら精神的に、と思ったが、気づいた。こいつは心底人間じゃない。破壊される体も、崩壊する精神も持ち合わせではいない。こっちは、ただの人間だというのに、不公平なことだ。

 ミサは全裸の姿を気にすることもなく、ゆっくりと三隅に近づいてきた。その手が肩に触れ、体のラインをなぞるように、首筋へと。そして愛おしむように、頬を撫でた。ミサの唇が、三隅の唇を犯す。冷たいと思っていた彼女の唇は、異様なほど熱かった。それがさらに不快で、恐ろしかった。

「それじゃあ、あなたを食べさせていただきますね」

 眼前で満面の笑みを浮かべるミサ。

「あ、そのまえに……なにか最後のお願いはありますか?」

「願い……?」

「はい。たくさんイカせてもらった御礼です。何がいいですか?」

 望み。そう聞かれて、彼が答えるのは一つだ。

「俺はどうなろうと構わないが、三笠組の連中にはもう指一本触れるな。それだけだ」

 そういうと、三隅は瞳を閉じた。もはや、言い残すことは欠片も無い。そういった表情だった。ミサはその顔を見て、そっとその頬を撫でる。

「いいですよぉ。約束します」

 そうして、再び彼の唇を奪う。唇を離したミサは立ち上がり、朝露払≠三隅へと向ける。刃の先端は、腹部から胸部、そして喉元を順に指していく。そして、唇の前で停止した。ミサの舌が、軽く唇を舐めた。

「いただきまぁす」

 あくまでも軽い調子の声と共に、ミサは三隅の口内に、刃を突き入れた。

 

 

 

 

  エピローグ

 

 笹場透は、右手に紙袋を持ち、いつものアーケードに向かって歩いていた。彼の買い物は、そこでと決まっている。彼は急ぐわけでもなく、ゆっくりと歩きながら、無数の人々とすれ違う。

 ふと、彼は建物の壁に設置されている、オーロラビジョンに目を止める。

「次のニュースです。昨夜未明、綾瀬市に本部を持つ、指定暴力団『三笠組』が、何者かに壊滅させられるという事件が起きました。犯行現場となりました三隅誠一宅は、百名近い構成員の死体であふれており、凄惨きわまる光景だったということです。また、死体が運び出された形跡もあり、おそらく犯人が持ち去ったものと考えられます。しかし、その動機はまったく不明です。目撃証言も無く、犯人像の絞込みが難しく、捜査は難航している、とのことです……」

「毎日毎日、暗いニュースばっかりだなぁ」

 透はぼやいた。たまには良いニュースだけの日があってもいいんじゃないか、と思う。けれども、それがほとんど無いに等しい可能性であることも理解していた。まぁ未来にはどうなるかはわからないけれども。

 とりあえず、今は現実を生きるために、透は買い物をすることにした。

 アーケードに入り、細い路地を抜け、透は『紅牢生肉店』へと着いた。店のガラスケースの向こうに、いつものようにミサが居た。

「おはようございます、ミサさん」

「おはようございます〜、トオルくん。今日は何を買いに来ましたか?」

 笑顔を浮かべるミサに、透は少し顔を赤らめて言う。

「あ、いえ。今日は買い物じゃないんですよ」

 そういって透は、持っていた袋の中身をミサに差し出した。

「昨日はありがとうございました。あの秘密のお肉、すごく美味しかったですよ。それでですね、日頃お世話になっているミサさんにプレゼントを、と思ったんで」

「まぁまぁ、なんでしょうねぇ」

 ミサが包装紙を破り、中身を取り出す。木箱に入れられたそれは、新品の中華包丁だった。

「あら〜、こんないいものを。ありがとうございます、トオルくん」

 中華包丁を持って、深々と頭を下げるミサ。トオルはその素直な態度に、あはは、と照れ隠しの笑いを浮かべた。

「大切に使わせていただきますよ〜、トオルくん。あ、もしあのお肉が食べたくなったら言って下さいね。トオルくんになら、いつでもあげますからね〜」

 ミサがウィンクする。トオルは顔を赤くしながら「ありがとうございます」とお礼を言って、去っていった。

「………しばらくは在庫もありますしね〜」

 ミサが独り言を呟いた。トオルの姿が完全に見えなくなった後、ミサは店の奥に入る。

 作業用のテーブルの上に、紅いものがいくつか乗っていた。それは、人間の心臓だったくり抜かれた心臓の持ち主は、彼女のベッドの上に、覆いかぶさるように乗っている。

 ミサは先程トオルからプレゼントされた中華包丁を取り出し、水洗いする。

「ほい」

 すとん、と心臓が切り裂かれる。

「ほい」

 一口サイズに小さくカットされていく。

「ほい」

 それをパックに移し変えて、ラップで封をする。表にシールを貼り付ける。『試作品』と書かれていた。

「……まだまだありますよ、どんどん食べてください、トオルさん」

 ミサは独り言を呟いた。彼女は満面の笑みを浮かべながら、新品の包丁の切れ味を楽しむように、心臓を切り刻み始めた。







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