近所に住む人などが通ると、にこやかに微笑んで挨拶する。「おはようございます」というたった一言だけど、気持ちいい挨拶は心まで晴れやかにしてくれる。とあたしは思っている。逆に言えば「おはよう」のたった一言さえ言えない人もいる。あたしはそれが不思議でならない。こんなに簡単なことなのに。
「お……ふぁぁぁよぉぉ……」
ぼーっと考え込んでいたのだろう。いつのまにかすぐ側にいた人が、あくびと同時に挨拶をしてきた。
こんなだらけた挨拶をする人は、知り合いには一人しかいない。
「おはよー」
あたしはにこやかに挨拶を返す。目の前にいたのは予想通りの人物だった。制服をだるそうに着ている彼は、藤柳慎哉。高校で仲良くなったクラスメイトだ。彼はもう一度あくびをしながら、取り出したハンカチで眼鏡を拭く。
「おーおー、朝から元気だなぁ。オラにその元気を分けてくれ」
「また眠そうな顔してるね。また夜更かししてゲーム?」
慎哉はひどく心外、と言わんばかりに大げさに肩をすくめた。
「馬鹿をいうんじゃないよ。ワタシが毎度毎度同じような理由で睡眠時間を減らしていると思ってるのかい? だとすればそれは浅はかな考えだと言わざるを得ないなぁ」
「じゃあ何だったの?」
「昨日は膨大な知力と長時間の戦闘に耐えうる忍耐力が要求される高度な知的戦略模擬演習を行っていたのだよ」
「……要するにシュミレーションゲームをしていたんだね」
「何故分かったのだ!?」
大げさに驚いてみせる慎哉。いつもながらリアクションが派手だ。
「まー、そんなことはどーでもいいか……ん?」
慎哉がこちらを見る。そのままじっと凝視してきた。人を直視するのがあまり得意じゃない彼にとっては珍しい。
「どしたの?」
「なんか髪の毛はねてるんだけど、斬新なファッションか何か?」
そう指摘されて、あたしは苦い顔をする。
「あ〜、ちょっと寝坊しちゃってたから直ってなかったのかな…」
常にだらだらとしている彼だけれども、たまにこちらが驚くようなことに気づいたりする。それはなんだか面白かったりするものだ。
「いかん、いかんよ。昔の偉いひとは言ってた。名は体をあらわす=@体は心をあらわす=@つまり肉体の乱れは、心の乱れをあらわしてしまうのだよ。だからこそ身だしなみというものは常に整えることが必要なのだ。分かったかね?」
「はいはい、教室に帰ったら直すよー」
通学途中のたわいもない話。毎日繰り返していることだけれど、飽きないのはなぜだろう。
慎哉のだらだらと長い説教(らしきもの)を聞き流しながら、あたしたちは学校へと歩を進めた。
「え〜、だからね。ここに、この公式が入るわけね。え〜それで、この式を解いて導き出される数値が、解答になるわけですね。分かりましたか?」
どことなく間延びした教師の声が、静かな教室に響いている。生徒は全員下を向いて、シャープペンシルを動かしている。まだ二時限目だというのに、授業中はどうしてこうも眠くなるのだろう。船をこぎ始めた頭を覚ますために、ぺちぺちと頬を叩いた。
ふと思い立ち、後ろの席にいる慎哉を見てみると、彼は左手で頬杖をつきながら、思い切り寝ていた。堂々としているというか、ふてぶてしいと言うか。まぁ起こすのも可哀想なのでとりあえずそのままにしておいた。
そうしたら、先生に見つかって思い切り三角定規で叩き起こされてしまった。教室内に失笑が漏れた。
「ふぅ、オレとしたことが迂闊だったぜ。まさか宿敵の接近に気づかないとはな……落ちたものだ」
授業が終わると、慎哉がなにやら深刻な顔でそんなことを呟く。あたしは椅子に座りなおして後ろの席に振り返った。
「起こせばよかったね」
「いやいや、それには及ばんさ。自らの過ちは自らで清算する。それが紳士というものだ」
「…紳士は居眠りしないと思うんだけど」
慎哉はあたしの突っ込みを聞こえないフリをして流した。
「そういえば佐比良さんや。授業中に意識を失った我輩にノートを見せてくれんかね。一応我輩は紳士であるから、真面目に勉強をしなければならないのでね」
「……だから真面目に授業を受けなさいって」
そういいながらもあたしは先程のノートを引っ張り出して、彼に渡す。
「おお、ありがたや神様仏様佐比良様」
適当にそんなことを言って、慎哉は嬉々としてノートを写し始める。なんというか、ある意味でとても清々しいと思う。本当に、彼といると飽きるという感情を忘れてしまいそうになる。
「そういえば、ほら」
あたしは朝に慎哉に言われた方の髪をかきあげる。ちなみに寝癖はしっかりと直してある。
「………ん、どした」
「どした……って……もしかして忘れた?」
あたしにそう言われて、首を傾げる慎哉。本当に何のことか分からないようだ。
慎哉の物忘れのひどさは熟知していたけど、まさか今朝のことまで忘れているとは思わなかった。あたしは大きく溜息をつく。
「………髪が乱れてるって言わなかったっけ?」
「……おお、そういえばそんなこともあったな。今度は万全じゃないか。いや、よかったよかった」
平然とそんなことを言う。あたしはなんだか頭が痛くなってしまった。
「あー……ちょっといいか?」
慎哉を見ていたあたしに誰かが声をかけてきた。声の方向に振り向くと、クラスメイトの南野くんが立っている。なにやら難しい表情であたしたち二人を見ていた。
「どうしたの南野くん」
「あー…………なんだ、その」
なぜか語尾を濁す。一体どうしたというのだろう。普段の彼は慎哉とタメを張るくらいに饒舌なのだけれども。
「あー……ええとだな。喋る前に断っとく。これから俺がする質問は、ジャンケンで負けた俺が代弁する言葉であってだな。俺自身がこういうことを聞きたいという意味ではないので、誤解しないでくれ。それだけ頼む」
「んー、なんかよく分からんが、分かったことにしておこう」
慎哉が相槌を打つ。それで覚悟を決めたのか、一回深呼吸をした後、南野くんが再び口を開いた。
「おまえらって付き合ってるのか?」
その質問は、あたしにとっては意外でも無かった。いつかは誰かに聞かれることだと思っていたからだ。それは慎哉も同じだったようで、自信満々な高笑いを上げた。
「愚問だな、南野。我々の関係がなんであるかなど、言葉にする必要を感じないな。見れば分かるだろう? 俺たちは心の友≠ニ書いて心友≠セ。スピリチュアルフレンドとも言うな」
「その英訳はなにか違うと思うけど…」
あたしのぼやきも気にせず、慎哉は言い切った。
質問をした南野くんは、顔色一つかえずに「そうか」と一言だけ言った。一瞬で理解した、というよりは、単に面倒くさいだけだと思う。
「うん、わかった。話し中に済まなかったな。じゃ」
そういい残すと、自分の席にすたすたと戻っていった。
「むぅ、よくわからん奴だな。わざわざ聞くまでも無いことを」
眉間にしわを寄せる慎哉に、あたしは「そうだね」と一言だけ相槌をうった。
授業終了のチャイムが鳴る。
あたしは教科書とノートを整理して、帰り支度をすませ、後ろを振りむく。
案の定というか、いつものことというか、慎哉はチャイムに気づかず寝ていた。あたしは彼を起こすために、詰め込んだ勉強道具で重くなった鞄を頭に落とした。
「んごっ………お、おお? ああ、もう終わりか」
寝ぼけ眼で周囲を見渡して、状況を把握する。机に広げていた勉強道具を机にしまいこむ。持って買えるという習慣は、彼には無い。
「おし、帰るか」
「うん、帰ろうか」
薄っぺらい鞄を掴んで立ち上がる。教室を出て、だらだらと階段を下り昇降口までついたとき、唐突に慎哉が立ち止まる。
「おお、忘れていた。今日はコミックス新刊の発売日じゃないか。どうやら本屋に寄らざるを得ないようだな」
「今日はなに買うの?」
「確か今日は……なんだったかな。まぁいいや。本屋についてから見つけよう」
そういうと、下駄箱から外履きを取り出して、昇降口を出て行った。
同じように靴を取り出しながら思う。
あたしたちはそれほど特別だろうか?
男と女だからといって、すぐに恋愛関係というカテゴリーにはめられるのは困る。男同士、女同士で気が合う人がいるのだから、気楽になんでも話せる異性がいたって別に不思議じゃない。
あたしは慎哉が好きだ。
けれどもそれは付き合いたいとかじゃなく、ずっとこうして対等の友人でいたい。そんな感情。
深くもなく、浅くもない、曖昧な関係。
でもそんな関係が一番長続きしたりするものだ。
「おーい、どうした? 置いてくぞ」
振り返った慎哉が呼んでくる。
「いまいくよー」
あたしは靴を履き替えると、軽い足取りで立ち止まる慎哉へと走り出した。