正しさ



「ちょっと待ちなさいよ」

 その少女の声は、二人の男達の足を止めさせた。

 不快そうな舌打ちと共に、背後を振り返る長髪と金髪の男達。

 その視線の先には、先程勝手にぶつかってきて倒れた老婆が一人。そしてその老婆をいたわるように寄り添う少女が一人。先程の声は、むろんその少女の方だった。

「なんか用かよ」

「見てわかんないの? お婆さんにぶつかったでしょ。謝りなさいよ」

「あ? なに言ってんだ。そのバアサンからぶつかったんだよ」

「嘘つかないで。わたし見てたんだから。あんたがお婆さんを突き飛ばしてるの」

「ったく、ベラベラうっせえな。お前には関係ねーだろうが」

「関係なくたって言うわよ。あんた恥ずかしくないの?」

「んだよ、ウゼェな……」

 唾を吐き捨てる金髪の男を、長髪の男が制した。

「ムキになんなよ。こんなガキのいうことほっとけ」

 そりゃそうだな、といった風に、男は少女に対して鼻を鳴らして笑った。

「待ちなさいよ!」

 少女は背中を向けて去っていこうとする金髪の腕をつかむ。男は眉根に不快感をあらわすと、力任せに少女を振りほどく。耐え切れなかった少女の軽い身体は、アスファルトに投げ出された。

「あんた、だいじょうぶかい?」

 立ち上がった老婆が、少女の下へ駆け寄る。地面に座り込んでいた少女は、立ち上がろうと手をついた時、ちくりと痛みを感じる。手のひらが擦り剥けていた。少女はそれを老婆に見せないようにして、立ち上がる。

「大丈夫です。それよりさっきの二人は……」

 少女は目を凝らすが、先程の男達は雑踏にまぎれて姿を消していた。

「いいんだよ、おじょうさん。あたしは別に気にしてないからさ。よくあることだよ。あの人たちもわざとやったわけじゃないんだ」

「でも……」

「おじょうちゃんが心配してくれただけで、あたしは満足だよ。ありがとうね」

 老婆はそういい残すと、しわくちゃの微笑を浮かべ、少女にぺこりと頭を下げて去っていった。途中、一度振り返って、少女に手を振った。少女は作り笑いを浮かべて、手を振り返した。

 老婆の姿が見えなくなった後、少女は唇を噛み締めた。

 

 

「ただいま…」

「よう、お帰り」

 新聞を読んでいた少年が、少女の声に顔を上げる。少女は顔をうつむかせたまま、無言でソファの上で膝を抱えた。

「なにブルーになってんだ、つばめ」

 少女の名前を呼んだ少年は、新聞をテーブルに置くと、少女の肩に軽く触れる。その手を少女が邪険に振り払う。少年はその行動で気づいた。

「ん? 手、怪我してるぞ」

「……うるさい。ほっといてよ」

「ほっといたら駄目だっての。ほら、さっさと手洗ってこい。手当てしてやるから」

 少年が少女の手を引いて、洗面所につれていこうとするが、少女はソファにしがみついて動こうとしない。

「……まったく」

 郷を煮やした少年は、少女の脇腹をくすぐった。むず痒さに少女が身をよじった隙に、その身体を一気に抱え上げる。

「ちょ、ちょっと、離してってば」

「少し大人しくしてろ。な」

 少女は手足をばたつかせて抵抗するが、もともと腕力の無い少女が暴れたところで、少年にとっての妨害になるはずもなく、黙々と彼女を運搬した。

 

 

 泥を洗い落とし、消毒を済ませた少女の手に、少年は優しく包帯を巻いていく。抵抗を見せていた少女も、今は大人しく治療を受けている。ただし、その表情はまだ暗いままだ。

 包帯を巻きながら少年が聞く。

「転んだか? それとも転ばされたか?」

「転んだの」

 小さい笑い声が聞こえた。少年の手が止まり、肩が小さく震えていた。

「おまえの嘘は分かりやすいから楽だよ」

 あっさりと嘘を見破られた少女は、頬を紅潮させ、顔を背けた。

 少年は包帯の先端同士を結びつけると、少女の手のひらをそっと撫でる。そして少女の座っていたソファの隣に腰かける。少女の拒絶は無かった。

 

 

 沈黙の中、時計の秒針だけが正確に時を刻んでいく。

 少年は時々、少女の顔を覗き込むが、少女は先程と同じく膝を抱え、少年と視線を合わそうとしなかった。

 少年は少女に聞こえないように、三度目の溜息をつくと、再び沈黙に身を任せる。

 静謐な時間が、彼の睡眠欲求を刺激する。鮮明に聞こえる秒針の規則的な音が、彼の思考を単純化していく。ソファに自らの体が沈み込んでいくような錯覚を覚え、彼は意識を閉じようとして、瞳を閉じる。

 ふと、身体に感じる重みに、彼は意識を覚醒させられた。

 少女の身体が、少年に寄り添っている。膝を抱えた両腕の力を抜いて、少年の胸元に肩を預けている。

「鷹にぃ」

 視線だけを合わせないまま、少女は少年を呼ぶ。

「あたし、間違った事はやってないよ。なのにさ、どうして上手くいかないの? 弱い人は強い人に媚びなきゃいけないの? 強い人のやる事は全て正しいの? 弱い人には正しいことを言う権利すらないの?」

 少女の言葉を黙って聞いていた少年が、ゆっくりと口を開いた。

「世の中すべてが、正しいことで通ってるなら、全人類が平和になるんだろうけどな」

 少年が背中に回した手が、少女の左肩を、子供をあやすようにそっと叩く。

「生憎と、世の中は正しくないことの方が多い。世界一誠実な男が全く出世しなかったり、嘘を全くつかない男がうそつきにされたり。どっちかというと、正しい奴らが粟を食う世界になってる。残念なことにな」

「じゃあ、あたしは間違ってるの? 何を言っても何をやってもあたしが負けるの?」

 悔しさから、少女が少年の服をぐっと引っ張る。

 少年は微笑を浮かべて、その手を優しく撫でてやる。

「物事すべてを勝ち負けで判断するのは、悪い癖だな」

「だってそうじゃないの? 結局正しい物が悪いんでしょ」

「悪いとか良いとか、そういう問題じゃない。何があろうと、正しい事は正しいし、悪い事は悪いんだよ。ただ、正義ってのは、大衆に評価されないだけなのさ。多くが支持するのは、必ずしも正論じゃない。その場で最も適切であるかどうかが基準になるのさ。その場合に支持される多くが、正論じゃないことが多いだけのことだ」

 少女が掴んでいたシャツを話して、少年の胸板を軽く叩く。

「鷹にぃの言ってることって、わけわかんない」

 少年は少女の頭を軽く撫でてやる。

「お前の行動は誰からも評価されなかったか?」

 少女の頭に、あの老婆の記憶が甦る。

 微笑を浮かべて、ありがとう、と頭を下げた老婆。

 少女の手は、少年を叩くことを止めた。

「なら、それでいいんじゃないのか? それに、誰も評価してくれなくても、俺はお前を支持してやる。それでも不満か?」

 少女は寄り添うようにしていた身体を少しだけ離すと、肩越しに少年を見る。少女は頬を膨らませて、むくれた表情を作っていた。

「……ずるい」

「何がだ?」

 少女は半眼で少年を睨みつける。

「鷹にぃにそう言われたら、イヤって言えない」

 少女のその言葉に、少年は微笑を浮かべて、もう一度少女の頭を撫でてやった。

「嘘をつけないのも、お前のいいところだ」

 少年の言葉に、少女は少し沈黙した後、小さく笑った。







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