そんなことを思いながら、いつもの様に学校の屋上に上がってきた。
学校の屋上ってのは、危険防止だとかなんとかで鍵が掛かっていて普通は入れない。だが自分には関係ない。
懐からここの合鍵を取り出す。以前、こっそりとくすねて作っておいたのだ。鍵屋に持ってけば、ものの10分ほどでできる。便利な世の中だ、全く。というわけで、生徒では自分しかここに入ることは出来ない。だからこそ、この学校という空間の中で、どこよりも自由な場所なのだ、とも言える。
まぁつまり、学校の中で安全に煙草を吸えるのが、ここしかないというわけだ。
(ま、どうでもいいわな、こんなこと)
かちり、という金属音を聞いて俺は扉を開けた。
屋上に出て真っ先に感じたのは、風だ。これでもかってくらいに身体をなぶるように吹きつける。伸ばしている髪がその後を追うようになびいた。風に身を打たせてしばらくぼーっとしていたが、そろそろ飽きた。入り口の扉の側にある梯子で、屋上のさらに上へと上っていく。
ここは特等席だ。
ここから景色を見下ろしながら吸う煙草は、非常に美味い。
ということで、さっそく携帯灰皿を取り出し、愛用のラッキーストライクを取り出すと、地面に腰を下ろす。箱を叩いて一本取り出すと、胸ポケットからジッポライターを取り出す。火花と融合し火がともると、オイルの香りがかすかに鼻腔をくすぐる。ジッポを愛用している理由が、この瞬間の心地よさだ。
煙草に火をつけると、カチャっという金属音を響かせ、ジッポを仕舞いこむ。そして肺の奥まで紫煙を吸い込んだ。
かすかな吐息をともに煙を吐き出す。たなびく紫煙は空に舞い上がり、景色に溶ける。視界に映る空はどこまでも青く、俺を飲み込むほど鮮やかに広がる。
最高の時間だ。
笑顔を浮かべて、幸せを噛みしめる。視界に映る空はどこまでも青く、身体を飲み込むほど鮮やかに広がる。このまま時が止まればどんなにいいことか。
そんなとき、耳に聞こえたのは、がちゃりという耳障りな音だった。
即座に体を低くし、低い姿勢から下を覗き込んだ。あの音は屋上の扉が開いた音だ。誰か教師が来たらしい。生活指導の廣田の野郎だったら、エライ事だ。
(面倒だな、クソ)
見つからないようにゆっくりと顔を出し、侵入者の姿を確認する。
だが以外にも、そこにいたのは教師ではなかった。
制服を着た女生徒が、扉の前にいた。彼女はすぐに入ってきた扉に鍵をかける。道を閉ざすと、安心したように伸びをした。
もの覚えの悪い俺だが、この女は一度見たら忘れないだろう自信がある。赤く染めた短い髪。左耳についた3つのピアス。そして、左目についた眼帯。学校≠ニいう空間の中ではあきらかに異質な女だった。
(まぁ、異質といえば、俺もそうなんだろうけどな)
女はきょろきょろと周りを見渡した後、いきなりこちらへ振り向いた。あわてて隠れようとしたが、遅かった。すでに女と目が合っていた。
「あ、フリョー発見」
女が隠れようとしていた自分を指差す。いや正確には、彼女の人差し指は俺の右手にあった煙草を差していた。
「ども、不良です」
観念し、投げやりにつぶやく。何が面白かったのか女は「あははっ」と笑うと、自分の胸ポケットからメンソール入りのマルボロを取り出した。
「わたしも混ぜてよ」
「ご自由に」
拒否する権限なぞないんだが、女は律儀にも許しを得てから、梯子を使って特等席に上ってきた。
「へぇ、いいトコだね」
女は高い視点から周囲を見渡してそういった。
「景色だけはいいんだ。ここは」
右手に残っていた煙草を一口吸うと、灰皿に押し付けて消す。
彼女は隣に腰を下ろすと、煙草を一本取り出す。それを口に咥えると、胸ポケットをまさぐる。確認するようにもう一度覗き込んで、溜息をつく。
彼女はこちらを見ると、自分の煙草を指差す。
「ね、火ぃ貸して」
「はいよ」
ポケットからジッポを取り出して、火をつけてやる。
ゆらめく炎に、なぜか彼女は煙草を近づけようとはせずに、じっとそれを見つめていた。
「どしたの?」
「え? あ……いやね、いい匂いがしたから」
「オイルの匂いだよ」
「ふぅん……ジッポもなかなかいいね」
彼女はそう言うと、今度こそ煙草に火をつけた。肺に浸透した煙を、ふっと空に吹きつける。
「あ、わたし、空木音夢。ネム、でいいよ」
「……いきなり何」
「自己紹介よ、ジコショーカイ。煙草愛好家として、仲良くやろーよ。で、フリョー君の名前は?」
「羽佐間遼平。1年」
「じゃあリョウヘイって呼ぼう………って、うそっ!?」
音夢が、思わず煙草を落としそうになるほど驚いた。そのあと、まじまじと自分の顔を覗き込んでくる。
「まさか後輩とは思わなかった」
「2年生?」
音夢が頷く。
「……じゃあ、音夢先輩?」
「うわ、やめて。身体が痒くなるから」
「……音夢さん?」
「あー、やめてってば。そーゆー他人行儀なの大ッ嫌いなの」
むず痒くなるらしく、身体を掻きまくる。
「……音夢」
「オッケー」
収まったらしい。
とりあえず声には出さなかったが、変な人だ、と思った。
吸いきった煙草を灰皿に押し付けて、彼女が聞いてきた。
「ねぇ遼平」
「何?」
「なんでフリョーやってるわけ?」
彼女の眼帯をしていない右目が、こちらを見ていた。
俺は火をつけずに煙草を咥える。行動することで、言い始めるきっかけが欲しかったのだ。
「家が居心地悪いからな」
「厳しい親なんだ」
「要は、体裁とか世間体ばっかり気にしてるんだよ。親父は大学の教授。兄貴はそこの生徒。お袋は小学校の教頭。………みーんな頭ばっかり良くってな。進路も決めずにダラダラと居るだけの俺が、気に食わないんだろう。家にいれば毎日毎日、飽きもせずに説教さ」
軽く溜息をついた。
「あんたらはあんたら。俺は俺。…………そんなこともわかんねーんだよな」
そこでようやく煙草の火をつけた。紫がかった煙を肺の奥まで吸い込むと、腹の奥にくすぶっていた鈍痛が、波のように引いていった。
そういえばこの感触のために、俺は吸ってたんだっけな、煙草。
最初は不味いだけだった煙草も、今ではすっかり身体の一部のようになった。そしてこんな生き方にも、次第に慣れていった。
人間ってのは順応性の高い生き物だ。本当に。
「………ハードな生き方してるわね、あんた」
聞き出してしまったことを後悔しているのか。彼女の声はどことなく控えめだった。
「別に、慣れればどーってことないよ」
「ごめん」
「謝らないでくれって」
「それでも……なんかね」
彼女はぽりぽりと頬を掻く。
そんな彼女の姿を見るのが、どことなく胸につかえる。
長くなった煙草の灰を落とした。
「じゃあ、音夢も話してくれよ。不良になったいきさつを、さ」
「わたし………か」
彼女も同じように、火をつけない煙草を咥えた。
意識的にだろう。左目を隠している眼帯に触れた。
「2年に進学した矢先に、友達のバイクで事故ったの。その友達は、ガードレールを飛び越えて崖下に落ちて、即死。わたしはバイクから放り出されて、道路に顔面叩きつけられた。………覚えてるのはここまで。次に目が覚めた時に、わたしは病院のベッドの上だった」
ゆっくりとした動作で眼帯を外し、こちらに振り向いた。
彼女の左目は大きな傷跡で塞がれ、閉じたままだった。
「左目はもう見えなくなってた。破裂してたんだって。そのままにしとくとマズイからって、手術して目を取り出した。だからここには何も無いの」
眼帯が再び、彼女の左目を覆い隠す。
「この目と一緒に、私っていうものの何かが一緒に無くなったみたい」
彼女は赤い髪をかきあげた。
「退院して学校に戻ったけど、わたしを待ってた人はだれも居なかったみたい。友達も表には出さないけど避けてたし、先生も腫れ物を触るように扱ってきた。最初は反抗してたよ。髪を染めたり、ピアスを開けたり、暴れたり。反抗してれば教師たちはわたしを追い出すと思った。けど、そうじゃなかった。全員が見て見ぬふり。授業にでなくても、多分卒業できるんでしょうね。ここの人たちは待ってるの。わたしが3年間を過ごして、卒業、っていう正当な理由で学校を出て行くのをね」
空を仰いだ。火のついていない煙草が、同じく天を仰ぐ。
「気づいた時、どうでもよくなったわ。ほんとうに無気力。なーんにもする気が起きなくなった。ただ登校だけして、適当に時間をつぶして、帰ることがわたしの仕事。そう割り切って考えることにした。そうして、わたしはここにいるわけ」
彼女はこちらを見て、口元にかすかに笑みを浮かべた。
「……………………俺よりよっぽどハードじゃん」
いたたまれない気持ちになった。苛立ちまぎれに煙草を揉み消す。
よけいなことを聞いた、という棘が胸にささった。
「すまん」
自然と謝罪の言葉を口にしていた。
「いーのよ。遼平よりはマシだったわ。少なくとも、両親はあたしの味方だったしね」
「それでも、すまん」
無意識にもう一本、煙草に火をつけていた。
「もういいって、それより―――」
彼女は煙草の先端をこちらに向ける。
「火、ちょうだい」
ジッポを取り出して火をつけようとする。
だが火花だけが飛び、炎は現れない。
「……オイル切れか」
舌打ちする。確かもう一つ、予備のライターを持ってたはずだ。
「しょーがないな。こっち向いて」
彼女に従い俺が顔を上げると、彼女は自分の煙草を、俺の煙草に押し付けてきた。くすぶった灰が落ちて、彼女の煙草にうっすらと火がついた。
彼女は紫煙を吸い込み、俺にふっと吹きつけた。
そしてもう一度、笑った。
「ね、明日もここにいるの」
「ま、たいていは」
「これからは、わたしも来ていい?」
「いいけど」
断れる権限など無い。最初の質問と同じだ。彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「んじゃ、乾杯しようか。フリョー同盟の結成ってことで」
「………なにで?」
彼女が言葉に詰まる。
「じゃあ、缶コーヒーでも買ってきますか。何がいい?」
「ジョージアならなんでも」
俺は240円を彼女に手渡す。
「おごるよ」
「サンキュ」
彼女はウィンクして、階下の自販機へ向かった。
「ところでさ」
「ん?」
「なんで屋上に上がってこれたの。カギかかってたのに」
それはちょっとした疑問だった。
彼女はぽかんとしていた。
「カギ、かかってなかったわよ」
そこで気づいた。
「外から鍵を閉め忘れたのか………馬鹿だな」
「いーんじゃん。その閉め忘れで、わたしたちが会ったんだし」
「そういうもんかな」
「そういうもんよ。ということで、乾杯」
二人は120円の缶コーヒーで、互いの出会いを祝った。