プロローグ

 

「なぁ、お兄さん。考え直すなら今のうちだよ……」

 弱気な声が俺の隣から聞こえてくる。このマンションの管理人である北村さんの声だ。何度も何度も俺にそんな言葉をかけてくる。

 まぁ、気持ちはわからないでもないけど。

「大丈夫ですよ。俺はそういうの気にしないですから」

「………そうかい」

 難しい顔で北村さんが黙り込んだ。

 そして俺達は『325』とプレートの張られた部屋の前にたどり着いた。

 北村さんが鍵の束を取り出して、部屋の鍵を開けた。

 今日からここで、俺の、御崎誠の新しい生活が始まるのだ。

 

 

 

 

  【季節・春】 出会い  

 

「荷物は…昨日のうちに届いているからね」

 北村さんがビクビク辺りを見回しながら言ってくる。なんだか可哀想になるくらいだ。

「……ああ、もういいですよ。後は大丈夫ですから」

「そ、そうかい……それじゃあ、今後ともよろしくね」

 俺の言葉に急に笑顔になると、北村さんがひきつった笑顔を浮かべて去っていった。思い出したように「あ、これこの部屋の鍵だからね」と俺に鍵を渡すと、今度こそ逃げるように去っていった。

 

   325号室は、テラス付のワンルーム。トイレ、洗面所、浴室、ミニキッチン付。専有面積41.80u。まぁ普通よりはいい部屋だと思う。ていうかいい部屋だ。しかも家具までフルセット。通常なら家賃は十万くらいだろうか。親に家賃をお願いしたスネカジリの俺としては、こんな部屋を選べるはずもない。通常ならばである。

 選んだ理由は、家賃が驚きのニ万だからだ。

 もちろん今のご時世、そんな部屋があるわけがない。もしあったら速攻で取り合いだし。家賃の安い理由はちゃんとある。アレだ、いわゆるいわくつき≠ニいうやつだ。

 この部屋は幽霊がでる、というのがもっぱらの噂である。

 やれ包丁が宙に浮かんだだの、やれ本が勝手に開いただの、誰もいないはずなのにシャワーの音が聞こえたりだの、そういった怪現象が頻発しているらしい。なんでも以前ここに住んでいた『如月透子』という女性が、原因不明の蒸発をしたことから、彼女が幽霊の正体と言われている。

 北村さんが、俺に対して何度も忠告していたのは、もちろんこれが理由だ。

 しかし俺にとって最も重要なのは、幽霊などではない。これ以上格安の家賃の物件など見つからない、ということだ。というわけで、俺は管理人の反対を押し切り、この部屋を新しい家にすることにしたのだ。

「よし、じゃあ荷物を出すか」

 俺は事前に宅配便で送っていた荷物をバラすことにした。詰まれていたダンボールの一番上を降ろして床に置く。瞬間、もわっとホコリが舞った。

「うえっ」

 掃除もしてないのかよ、とつっこみたくなったが、当たり前だ。管理人さんは長いこと、この部屋に近づいてもいないのだから。窓を開けないとな、と俺が思った時、風が吹いてきた。ダンボールを飛び越えて見てみると、テラス側の窓が開いていた。

「………開いてるな」

 窓は開いていた。もちろん、開けた記憶などない。この部屋に入っていない管理人が開けていたはずもない。宅配業者が開けたというのは……無理だな。

 ………もう幽霊さんのお出ましか?

 まだ昼間だってのになぁ。俺はそんな風にぼやくと、冗談でいってみた。

「ども、幽霊さん。今日からよろしく」

 ぽとっ、とカーペットにペン立てが落ちた。テレビの上に乗っていたやつだ。

 ………挨拶してくれたんだろうか?

 俺はあまり気にすることなく荷物の解体を続けることにした。

 今日はこれ以外におかしなことはなく、平穏に過ごすことが出来た。

 

 

 想像していたよりは、この部屋でおかしなことは起こらなかった。

 自分が読んだ覚えの無い本が出ていたり、部屋がいつのまにか綺麗になっていたりするくらいだった。なにかがいる、というのはわかったが、特に害があるわけではないので、放っておいた。

 越してきてから3ヶ月が経過した日。

 学校から帰ってきて、部屋に帰ると、テーブルの上の本がぱたり、と閉じる音が聞こえた。本を手にとると、やはり読んだ覚えのない所にしおりが挟まっていた。

「……幽霊さんが読んでいるのかい?」

 どこへともなく話しかけてみると、テレビの上のペン立てが落ちた。

「……しおり、取ってもいいかな」

 俺がそういうと、カーペットの上に落ちたペン立てが、カタカタと揺れた。

「……駄目ってことかい?」

 ペン立てが宙に浮いて、テレビの上に乗る。そしてまた落ちた。

「………」

 俺は本をそのままテーブルに置いた。

 そして適当に晩御飯を作ると、食べる。疲れていたので早めに寝ることにした。

 ここにいる幽霊さんについて、ひとつ分かったことがある。ペン立てを落とすのは肯定で、揺らすのは否定の意味だということだ。

 布団にくるまって寝ていると、本のページをめくる音が聞こえてきた。

 きっと幽霊さんだと思ったので、俺は気にせずに寝ることにした。

 もう一つ分かった。幽霊さんは本が好きらしい。

 

 リリリリリリリリ。

 携帯の目覚ましアラームが鳴る。俺は寝ぼけた頭でアラームを止める。油断するとそのまま二度寝の体勢に入りそうな、気持ちいい眠気である。

 シャッといい音を立ててカーテンが開かれた。朝日が痛いほど目に入り込んできて、目が覚めてしまった。身体を起こして、ぼりぼりと頭を掻く。俺はばっちり起こされてしまった。

「…………」

 窓のほうに目をこらしてみるが、何も見えないし、誰もいない。

 ふと、いい匂いがしているのに気づいた。テーブルの上に、淹れたてのインスタントコーヒーが乗っていた。

 それと、テーブルに置いていたメモ帳の一番上に、小さな可愛らしい字でこう書かれていた。

昨日はありがとう

 ………幽霊さんが作ってくれたらしい。恩返ししてくれたようだ。幽霊さんは律儀らしい。

 そこでふと、思う。そして気づく。

 幽霊さんは文字がかけるらしい。

 ということは、もしかしたらコミュニケーションできるのだろうか。

 俺はなんとなく幽霊さんがいそうな方向に声をかけてみた。

「幽霊さん、自己紹介しようか。俺は御崎誠。ミサキマコト、ね」

 メモ帳がひとりでにびりっ、と破れた。そしてペンは一本浮き上がって、さらさらとメモに文字を書いていった。

私は如月透子。キサラギトウコだよ

 返事が返ってきた。

「如月さんは、幽霊かい」

違うよ。私は人から見えないだけ

「……どう違うんだい」

私は、ここに居るもの

「………」

信じられない、って顔してる

「そりゃあ、まぁ」

手、出してみて

 言われるがまま……いや、書かれるがままに俺は手を差し出した。テーブルの向こう側に、なんとなく彼女がいそうな方向に。

 その手が握り返された。俺の目にはなにも映らない。ただ、自分の右手には、彼女の手の感触と体温を感じることが出来た。

ね、わかるでしょ

 彼女が確認するまでもなく、俺には理解できた。

 姿は見えないが、確かに如月透子はこの場所に存在しているらしかった。

「……もうペン立てを落とさなくてもいいね」

 俺は見えない彼女に向かって語りかけた。彼女は手を離し、代わりにペンを握って、メモ用紙に言葉をつづる。

そうだね

 俺は小さく笑った。彼女も笑っていた。見えないが、なんとなくわかった。

「あらためてよろしく、でいいのかな、如月さん」 

透子でいいよ。よろしくね、誠くん

 かくして、俺と彼女は出会い、ここでの生活が始まるのであった。

 

 

 

 

  【季節 夏】 同居生活  

 

 外は暑かった。そして、部屋の中も暑かった。

 そんな中、俺はキーボードを叩きながら、提出期限が明日までのレポートと格闘していた。

 この部屋にはエアコンがついているが、夏に入ってからは一切起動していない。なぜなら、電気代の節約の為だ。 ………とはいえ、厳しい。

 額からはとめどなく汗が流れ落ち、Tシャツは身体に張り付く。グラスに入った水は、はやくも汗をかいていた。

大丈夫?

 ぱたぱたと、うちわが浮いている。俺を扇いでくれているのは透子だ。

「………ああ」

 大丈夫、と言いたいところだが、精神的にはダウン寸前だった。

 しかし、そうも言ってられない理由が二つあった。

 一つは、成績に関する切実な理由。

 もう一つは、透子だ。

 俺の額の汗をタオルで拭い、うちわで扇いでくれている。メモとペンが先程から動いていないのは、そのせいだ。

 彼女も頑張っていると思うと、なんとなく俺も頑張らなければと思う。

 そう思うからこそ、俺の手と頭は休まなかった。

 結局、すべてが終わったのは、夕方の五時近くになった時だった。

 

「………終わった」

 俺は完全に力尽きて、背中から床に倒れこんだ。

お疲れ様

 メモと共に、水が一杯、俺に差し出された。

 俺は身体をわずかに起こして、それを飲み干す。そしてまた倒れこんだ。コップが浮いてキッチンに消えていき、今度はタオルを絞る音が聞こえる。そして俺の額に、氷水で冷やされたタオルが載せされた。

「………生き返るなぁ」

 俺が脱力感とともに開放感を味わっていると、彼女のメモが俺の目の前に見える。

冷たいもの、食べる?

「食べる」

 俺は即座に答えた。

 ひとりでに冷蔵庫が開き、冷えた器に盛られたものが運ばれてきた。俺は身体を起こしてそれを見た。

手作り杏仁豆腐

 はずんだ調子の文字が、テーブル上のメモに書かれる。

「いただきます」

 俺は短く告げると、無心で杏仁豆腐をかき込んだ。

 冷たく、甘く、美味しかった。

少しは味わって食べてよ

 透子が少しふくれた様子だった。

「……悪い」

で、美味しいの?

「美味しいよ」

嬉しい。また作るね

 先程の怒りはどこへやら、うれしそうに彼女は言葉をつづった。

 

「そうだ、プレゼントがあるんだ」

 夜になって、ようやく暑さも引いた頃、俺は透子に言った。

え、なになに

 嬉しそうだ。

「いや、そんなに期待されても困るけど……」

 なんとなく居たたまれなくなりながら、俺はそれを差し出す。

 手の先にあったのは、小さな鈴の付いたブレスレットだった。

これ?

「そう、これ」

 彼女は不思議に思いながらも、それを受け取った。

 彼女がそれを腕につけると、ブレスレットは俺には見えなくなった。彼女が身に付けたものは、俺には見えなくなってしまうのだ。

 リン、と鈴の音が鳴った。彼女の手が動いたのだろう。

似合うのかな

「似合うと思うよ」

 彼女の姿は見えないが、雰囲気はわかる。

でも、なんで鈴がついてるの

 リンリン、と鈴が鳴った。

「それがあれば、透子がどこにいるのか、俺でもわかるだろ」

 鈴の音が止まる。そしてメモ用紙の上で、ペンが動いた。

私はペットじゃないよ

 鈴の小さな音が、俺の後ろにまわる。背中に彼女の拳が当たった。

 ………怒っていた。

 俺は小さく溜息をついた。

「そういう意味で渡したんじゃないよ」

 じゃあどういう意味よ、と言いたげに、俺は何度も背中を叩かれた。

「俺には透子が見えないから、かわりに聞きたいんだ」

 俺を叩く手が止まった。

 かわりに彼女のてのひらが、そっと俺の背中に添えられた。

「許してくれるかい?」

 彼女は答えなかった。

 てのひらが俺の背中から離れ、地面についていた俺の手に触れる。

 彼女は、手の甲に文字をつづった。

ありがとう

 鈴の音が聞こえた。

 

 

 最近はアラームをセットする必要が無くなった。透子が起こしてくれるからだ。料理をする必要が無くなった。透子が作ってくれるからだ。掃除をする必要が無くなった。透子がいつも綺麗にしているからだ。

 かといって、俺がなにもしなくなった訳ではない。彼女にもできないことがある。

 透子はこの部屋から外に出られない。だから買い物は俺の日課になった。透子は喋ることができない。だからいつもテーブルの上には、ペンとメモを用意しておいた。透子は眠ることができない。だからいろんな本を用意した。

 お互いが、お互いを支えていた。

 こんな関係になるのに、長い時間はかからなかった。一緒に住むということは、そういうことだ。

 俺が起きている時は、透子の鈴の音が聞こえる。俺が寝ている時は、本をめくる音が聞こえる。

 見えなくても、彼女はたしかにそこにいる。

 それが、あたりまえになっていた。

 

 

 

 

  【季節 秋】 誕生日  

 

そういえば、明後日は誠くんの誕生日だよね

 透子がだしぬけにそんなことを書いた。

「ああ……そういえば」

 俺はバイト帰りの気だるげな身体をテーブルに投げ出しながら、彼女の言葉を読んだ。

ね、パーティーしようよ

「……何の」

決まってるでしょ。誠くんの誕生日を祝うパーティー

「………ガキじゃないんだしさ」

 俺はテーブルから離れると、床に寝転んだ。

 しかし、彼女の文字が書かれたメモが、俺の鼻先に突きつけられる。

ねぇ、やろうよ

「めんどいし」

やろうってば

「気乗りしないし」

 彼女が黙り込んだ。

「………透子?」

 身体を起こした俺が言葉をかけると、右から鈴の音が聞こえた。

 目をやると、レポートやら資料やらなんやらが入った俺のバッグが空中に浮いていた。予想通りというか、それは俺に向かって振り下ろされた。鈴音が断続的に響いてくる。

「いてて、おい、透子、やめろって」

 腕で防いではいるものの、重いから結構痛い。

 殴られるたびに、馬鹿、と入っている彼女の姿が目に浮かんだ。

「わかった、わかったから、止めてくれ」

 その言葉をまっていたように、バッグはぴたりと止まった。

 それが床に下りると、メモが俺に問いかけてきた。

ほんとに

「ああ、本当だ」

ウソついてないよね

「この目が嘘をついてると思うか?」

 一瞬の間の後

信じてあげる

「………なんだよ、今の間は」

気にしない、気にしない

 釈然としないものを感じながらも

じゃあ、約束の指きり

 とりあえず、見えない彼女と小指をからめて約束をした。

じゃあ明日は帰りに買い物してきてね

 そう言って彼女は、買い出しの品目を書きはじめた。

 ………バイト、休みにしないとな。

 

 そんなやりとりから2日後、誕生日当日。

 俺はまっすぐ家には帰れなかった。

 バイト先の飲食店で、急な団体の客が入り、俺無しでは対応できなくなったのだ。

 マネージャーから電話が入ったのが、午後3時。ちょうど講義の終わった頃。一度、家に帰る時間的余裕は無かった。

 俺は苦虫を噛み潰す思いで、アルバイト先に向かった。

 連絡を入れたかったが、彼女は家の電話には出ない。声が出ないからだ。

 ………誕生会は明日でも出来る。

 自分にそう言い聞かせて、俺は厨房で包丁を振るっていた。

 時間が早く過ぎることを願いながら。

 

 仕事が終わった時、七時を回っていた。俺は着替える暇も惜しみ、スクーターに飛び乗った。

 家についたのは七時十分。

 俺はスクーターを停止させ、いそいでマンションの階段を駆け上った。

 その間、鍵束から325号室の探して握り締めていた。扉の前に立つと、鍵を開けて、中に滑り込んだ。

 部屋は真っ暗だった。いつもなら、鍵を開ける音で電気をつけてくれていた。

「……透子?」

 呼びかけたが返事が無い。

 変わりに、なにかが俺の顔に当たった。暗くて何が当たったか分からない。考えている間にもう一度、俺の顔に何かが当たった。

 俺は手で投げられる何かを防ぎながら、電灯のスイッチを入れた。

 明るくなった部屋で見えたのは、握りつぶされてくしゃくしゃになったメモ用紙だった。

 それは床に散乱していて、その一つが浮き上がり、俺に向かって飛んでくる。

「透子、やめろって」

 だが彼女は止めなかった。丸まったメモ用紙を、何度も投げてくる。

「全く、何やってるんだよ……」

 俺は自分に飛んできたメモ紙を拾い集めた。そしてふと気づいた。くしゃくしゃのメモを広げてみる。

嘘つき

 一言だけ、そう書かれていた。

 俺は丸められたメモを次々と広げてみる。投げてこられた紙全てに。同じ言葉が書いてあった。

 メモの飛んでくる方を見た。

 テーブルの上には、今日のための料理が並んでいた。全てにラップがしてあった。

 メモ用紙は無くなっていた。ペンだけがいつもの場所にあった。

 彼女が投げてきたメモが、俺の顔に当たって落ちる。

 視線を移すと、その紙が少し濡れていた。

 彼女は泣いていた。

 ………俺は馬鹿だ。

 透子はずっと待っていたのだ。俺の言葉を信じて。

 信じて、待って、そして俺は来なかった。罵りたくても、声が出ない。だから彼女は書いた。メモが無くなるまで。

 俺は胸の奥に痛みを感じた。

 やがて彼女の周りにメモがなくなると、投げるたびに小さく聞こえていた鈴音も止んだ。

 俺はゆっくりと、彼女のいるであろう方へと近づいた。

 紙屑がなくなったあたりで、そっと腰を下ろす。

 床に、雫が落ちているのが見えた。

 涙だ。

 俺はそっと手を伸ばした。手に触れた。彼女の肩だ。

 俺は透子を抱き寄せた。

 腕の中で、彼女の身体が震えた。だがそれも一瞬だ。

 彼女の吐息を耳に感じた。

 透子は確かにここにいる。見えないけど、確かに、腕の中に。

「ごめん、透子」

 俺は囁くようにいった。

「俺、気づかなかった。透子をこんなに傷つけるまで、気づきもしなかった」

 言葉が、制御できずにあふれてくる。

「透子はいつも俺に与えてくれてたのに、俺は何も返してなかった。ただ、俺は優しさに甘えていただけだった。だから、透子の気持ちを踏みにじるようなことを」

 自分の言葉に、自分が傷つけられていた。

 再認識した。自分の情けなさを。

「本当にごめん」

 もう一度、俺は彼女を抱き締めた。

 両手の中に透子を感じる。その身体は小さかった。

 そして、とても暖かかった。

 

 しばらくそうしていただろうか。

 彼女の手が、俺の肩に触れた。

 ぽん、ぽん、と。まるで子供をあやすように、俺の肩を叩く。

 大丈夫。

 そう言っている彼女が見えた気がした。

 俺は、ゆっくりと彼女の身体から離れた。同時に、透子の身体がそっと離れていくのを感じる。

 彼女はテーブルの上のペンを取ると、丸めたメモの一つを広げて、鈴の音と共に文字を書き始めた。

嘘つき≠ニ書かれた横に、新たな文字が書かれていた。

ごめんね、もう大丈夫

 俺を心配させまいとする、彼女の言葉。

 いつもの、彼女の言葉。

 それが今は、胸を打った。

「無理しなくいい。今は、責めてもらった方が、よっぽど楽だよ」

 うつむいた俺の視線が、床に縫い付けられる。

 耳に聞こえる透子の鈴音が、再び文字をつづっているのを伝える。

 彼女は書き終えたそれを、そっと俺の眼前に差し出した。

責める事なんて、できない

「……どうしてだよ。どうしてだ」

 俺は分からなかった。苦悩に顔をゆがめる。

 彼女はどうして、そんなにも優しいんだ。

 鈴がまた鳴った。俺の視界に、彼女の言葉が差し出された。

だって誠くんは、初めて私を受け入れてくれた人だもの

 それが、彼女の答えだった。

 

 ああ、そうか。

 考えてみれば、なんの不思議も無かった。

 目に見えないものを受け入れられる人が、この世にどれだけいるだろう。

 彼女は何度も逢ったのだ。ここにきた、何人もの人に。

 彼女は何度も拒絶されたのだ。ここにきた、何人もの人に。

 この部屋から出られない彼女は、待つしかなかったのだ。

 自分を受け入れてくれる人を。

 そして、彼女は出逢ったのだ。

 俺のような、変わり者に。

 

ずっと言えなかったけど、すごく感謝しているんだよ。誠くんがここに来なかったら、私はまだ一人のままだったもの

 俺はしわの寄ったメモを見ながら、胸が熱くなるのを感じていた。

 いままでに感じたことの無いものが、奥底からあふれてくるのを感じている。

 姿の見えない彼女が、そこにいると感じる。

 それだけでよかった。

 理由? そんな大層ものはいらない。

 多分、たった一つのシンプルな言葉で表せる。

 愛しい、ということだ。

 

 透子がメモとペンを床に置いた。

 鈴の音が、ゆっくりと俺に近づいてくる。

 俺の手が彼女に引かれた。ゆっくりと立ち上がる。

 俺の視線の先に、彼女の瞳がある。そう感じる。

 透子の手が、俺の手が、互いの身体に触れた。

 俺の腕が透子の背中に、透子の腕が俺の背中に回される。

 俺たちは抱きしめあった。

 先程とは違い、お互いを求め合うための抱擁。

 無意識に目を閉じた。

 目に映るものは、いまはいらない。

 彼女の存在は、視覚以外の感覚がはっきりと捉えていた。

 背中に回された透子の腕が、すこしだけゆるんだ。

 二人の距離が、ほんのすこしだけ開いた。

 俺を見上げる透子の瞳が、ゆっくりと閉じられるのが分かる。

 もう、言葉にすることも、文字にすることもなかった。

 俺と、透子の唇が重なり合った。

 

 どれくらいそうしていただろうか。

 一瞬のようにも、数時間のようにも思える時間。

 申し合わせたように俺たちは身体を離した。

 俺はしばらくぼうっとしていたが、不意に顔が赤くなった。

 自分の行為がどれだけ恥ずかしかったものかと、いまさら気づいたのだ。

 俺は真っ赤になって顔をうつむかせた。

 その俺の顔を、透子の両手が包み、そのままゆっくりと俺の顔を上げさせる。

 透子の瞳は、俺を見ているのだろうか。

「あ……その、だな。ええと……ごめん」

 俺はしどろもどろな状態で、その謝罪だけを言った。

 透子の右手が、俺の頬から離れる。

 その指先が、俺の胸にこう綴った。

ばか

 もう一度、透子が俺に口づけた。

 

 

 

 

  【季節 冬】 約束  

 

「ただいま」

 冬道をスクーターで走るということは暴挙である。そんなことを思いながら、俺は玄関の扉を開けた。

 それと同時に、部屋の明かりがつく。

 鈴の音と、差し出される一枚のメモ用紙。

おかえり、寒かったでしょ

「おーおー、聞くまでもなく寒いよ」

 俺はジャンパーと手袋を脱ぎ捨てると、のそのそとこたつに入り込んだ。背中に、ジャンパーをハンガーにかける音が聞こえる。

 俺が両手両足を遠赤外線で温めていると、透子がコーヒーを持ってきてくれた。反対側のこたつ布団がめくれたので、彼女もこたつに入ったのがわかった。

「ども」

 俺はすぐさまそれに口をつける。

 熱い液体が喉を滑っていき、体内から温まる感じがする。

「あー、この一杯のために生きてるねぇ」

大げさだよ

 彼女はくすくすと笑っているのだろう。

 俺も小さく笑った。

 

 この部屋に住んでから、もう十ヶ月が経とうとしている。

 そして、言い換えれば、透子と出会ってから、十ヶ月が経とうとしている。

 最初は、好奇心だった。見えない彼女に対しての。

 いつからだろう。

 部屋にいると聞こえる鈴の音に。

 目の前に差し出されるメモ用紙に。

 見えないけれども感じる透子の存在に。

 

 こんなにも心を癒されるようになったのは。  

どうしたの、ボーっとして

「いや、何でもないよ。ちょっとバイトで疲れたんだ」

肩でも揉んであげようか

「いいよ、透子も疲れてるだろ」

遠慮なんてしないで

 透子はこたつから出ると、俺の背後に回って肩を揉み始めた。

 温められた彼女の手が、俺の肩を揉み解す。

 肩がこっているわけでもないけど、なんとなく疲れが取れる感じがする。

「あー、きもちいいねぇ」

 だらしない声を上げる俺に、透子は悪戯をしかけてきた。

 肩に肘を立てて、ぐりぐりと刺激してきたのだ。

「お、いでっ、いででででで、痛い、いたいっつーの」

 俺の悲鳴が聞こえると、透子はすぐ肘を離した。

あはは、ごめんね

 透子がこたつに戻ると、俺はテーブルの上の蜜柑を手に取る。皮をむいて、半分に割る。一切れを口に放り込む。

 美味かった。

 一つ目を食べ終えた頃、反対側では透子も同じように蜜柑を食べていた。彼女は蜜柑についてる薄い皮までを、慎重に取って食べていた。

 皮が苦手なのだ。

「手伝おうか」

 俺は彼女を手伝って薄皮を剥き始めた。

 しばらくして、丸裸の蜜柑が出来上がった。

 彼女がその一つを手にとって、食べた。

美味しいね

「これだけ苦労すりゃ、そうだろうな」

誠くんも食べる?

「いいよ、じっくり味わってくれ」

 俺はそう言うと、蜜柑を食べる彼女を見ていた。

 透子の顔が、幸せにほころんでいるのが想像できた。

 

「なぁ、透子」

なに?

「………いや、なんでもないよ」

 ずっと一緒にいような、と言いかけて、止めた。

 口に出すと恥ずかしい。

 それに、言わなくてもそうするだろうと、思ったからだ。

 少なくとも、俺はそうだ。

 だって彼女は、俺にとって、欠くことのできない存在なのだから。

 一緒にいような、じゃない。

 いるんだ、ずっと一緒に。

ねぇ、誠くん

「ん、なに」

 透子は、コタツの上にある俺の手に、そっと自分の手を重ねた。

 

 

「いつまでも、一緒にいようね」   

 

 

 それは彼女の声だったのか。

 それとも空耳だったのか。

 分からないけど、その言葉の意味するところは、理解できた。

 なんだか無償に嬉しくて、俺は彼女の手を握り返した。

 いつまでも、そのままでいた。







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